2010年09月06日

堀四ケ村を歩く

尊仏山の水が育んだ扇状地             
                         浦田江里子    

 国道の車の流れを眼下に急な石段を上ると、沼代の御嶽神社はざわめく強い風の中だった。前日の大雨に洗われた青空が木々の間にゆれていた。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、立ち寄ったとされる場所で、昨年、記念碑も建立された。蔵王権現、日本武尊、宇迦之御魂尊(ウカノミタマノカミ=穀物の神・お稲荷様)の三人の神様が合祀され、境内には天神社、聖徳神社、山神社、天社神も並ぶありがたい神社である。
「まほら秦野道しるべの会」の西地区踏査の二回目は、地に足つけて愛情深く郷土を見守る米山正先生(元中学校校長・西地区在住)の丁寧な案内で、御嶽神社を出発点に新緑を楽しみながらのふるさと探訪となった。
 西地区は丹沢山系を源とする水無川と四十八瀬川に挟まれた扇状地である。水に恵まれた山麓地区は裕福であったが、砂地の平地は、水田が少なく、農作物も限られ、生活苦から出稼ぎに出る人も多かった。水道が整い、クヌギ林が住宅となり、水はなくても学校や駅に近いという地の利から、平地で商・工業が発展し急激な変化を遂げたのは、戦後復興の時期からである。
 人々の暮らしだけでなく、地名にも地形の特徴が表れている。西地区の堀郷という地域の大字は、東の水無川、西の四十八瀬川の中央に自然発生した堀(放水溝)が由来といわれる。
大字名は近世の村との考えから、堀郷は堀山下村、堀川村、堀西村の三村で成ると思いきや、堀西村については、その地名が実在したのは市町村制施行(明治20年)前の二年あまりという。近世後期を通して堀西村の前身は堀斉藤村と堀沼城村という名であり、この二村は旗本領を基準に分けられたことから、個人の土地ごとに属する村が違う、というややこしい状況だったようだ。道すがら米山先生の案内は「この家は堀沼城村、その隣の家は堀斉藤村、あの家は…」といった感じで、それは合理を無視した勢力争いの時代を垣間見るようだった。現在、その区切りや名残はない。同じ地域が「堀四ケ村」「堀三ケ村」と呼び分けられた理由である。
 国道246号線を渡り、沼代交差点を南へ向かう。小田急線を見下ろす線路脇で米山先生から「新宿小田原間の最高地点と最高の景色は?」との質問があった。答えは、駅名候補に「丹沢高原」があがったという標高169mの渋沢駅、青い山並みと山すそに広がるのどかな秦野盆地の風景とのこと。私の住む東地区は山ふところの趣だが、渋沢丘陵を臨む西地区には、ぐっと引いて車窓から眺めたい景色が広がっている。なるほど、と思う。
 かつて「富士道」だったテニスコート沿いの細道を抜け、山の斜面をそのまま坂にしたような急坂「堂坂」に出る。2基の道祖神と五輪塔が並んでいる。ここには観音堂があったが、関東大震災で倒壊し、観音様は現在沼代自治会館に安置されている。
 昭和12年の大洪水で流失した「二級国道東京沼津線跡地」(現在も当時のまま手付かずの草地)を見た後、山側の名所旧跡を巡るコースに入る。
 堀酉の地蔵堂(波多川公民館)には、延命地蔵が安置されている。木造地蔵菩薩の中に石造地蔵が納まる胎内地蔵で、1720年のもの。小田原板橋地蔵、山北竹ノ下地蔵とはお札の図案やお念仏の唱が似ており、何か深い縁があるようだ。鴨居の上部に飾られた古い絵や立派な須弥壇が歴史の重みを感じさせる。寄進者名や名簿に岩田姓がズラリと並ぶのは、岩田某が一族の守り神としたことから、岩田姓だけの居住を認めた時期があったことによる。
 波多川地区の鎮守、天津(アマツ)神社は竹林に囲まれた別世界である。時代を遡ったような錯覚さえ覚える。朴葉のお皿に鬼胡桃をのせたお供えは子どもたちが遊んだ跡だろうか。参道は山道、正面は四十八瀬川。部落に背を向ける神社の謂われも諸説あり、謎めいている。コンクリート製の龍図の立体絵馬は市の文化財となっている。
 上流の部落、黒木・欠畑地区の鎮守、須賀神社から西へ500メートルほどのところに大日堂跡がある。杉林の中に細く道ともいえない踏み跡があり、石仏や供養塔、阿弥陀仏石塔が散在している。かつて人々の信仰を集めたところに風化した石たちの佇まい。「…夢の跡」ではないが、時の流れにまかせ、自然のまま、ここにある。それもまたいい。
 森戸地区の自治会館には阿弥陀仏立像がある。この地には以前阿弥陀堂があり、安産の神様として多くの祈願を受けてきた。火災に遭うも地元民に背負われて町に出向き、立派にお化粧直しをしてきたという。
 元々は四十八瀬川上流にあった蔵林寺は文明年間(1469〜1487)に堀山下の現地に移転した。江戸時代、堀山下に領地を持つ米倉丹後の守の保護を受け、米倉家の菩提寺となった。丹後守・米倉昌尹(マサタダ)は後に若年寄りに昇進し、相模・上野・武蔵に15000石の領土を持つまでになり、1678年に先祖供養のために蔵林寺本堂庫裏を建立した。本堂左手に立ち並ぶ一族の墓石群の中、ひときわ丁重に扱われているのが昌尹の墓である。折しも前日は丹沢まつり。墓前は清められ、花が供えられていた。秦野ゆかりの武将をしのぶ勇壮な大名行列が今年も見られたことだろう。
 この日、出会った大山道の道標はひとつ。民家の並ぶ細い道筋、整地され手入れの行き届いた一角に、こぢんまりと立っていた。大山とともに「そんぶつみちへ」の道しるべも見かけるこの地区。扇状地の村に生きる人々にとって、命の水の湧き出る尊仏山もまた、心の拠り所であり、生活を支える大切な山だったのだろう。
posted by まほら秦野 at 15:49| 大山道を歩く コース編 西地区

2010年08月08日

大山道・蓑毛通り小田原道(栃窪街道)を歩く

大山道・蓑毛通り小田原道(栃窪街道)を歩く 

集合 渋沢駅南口 神奈中バス 9:18発「峠」行に乗車

真静院 大地裁 文安元年(1444)市指定文化財

神明神社 大日留女尊

行者道(小田原道)小田原飯泉…酉大友…篠窪…峠…桜土手…田原…蓑毛…大山

弘法の硯水、一本松

かりがねの松(頭高山)雁音比売命

念仏供養塔(文化3年1806)(渋沢3215)
     (正)念仏供養塔 文化三寅年七月一五日
     (右)右 小田原 さい志やうじ道
(かんざしの松)(栃窪301)

十日市場の道標(嘉永2年1849)
     (正)十日市場道
     (右)ふじ小田原道
     (左)御嶽大権現道

栃窪神社《昼食》

出戸用水

真栖寺

栃窪街道

寒念仏供養塔(道標)不動明王(文化元年1804)(渋沢1803)
    (正)東 かない観音 十日市場道
    (左)左 さいじやうし ふし道 
    (右)右 みろくし道 文化元甲子天四月吉祥日 
    (台正)寒念俳供養

双体道祖神

地神塔(道標)(文政4年1821)(渋沢777)
   (正)天社神
   (右)文政四巳年 右 ふじみち
   (左)十日市場道

双体道祖神

稲荷神社境内の道標(寛政8年1796)(曲松1−6−7)
   (正)右 ふじ山 さい志やうじ 道
      左 十日市場 かなひかんをん 道
   (右)右 大山みち
   (左)左 小田原 いいすミ みち 

浅間社石嗣(曲松1−2−16)

渋沢駅 解散
posted by まほら秦野 at 15:38| 大山道を歩く コース編 西地区

2010年07月04日

富士道(西地区の矢倉沢往還)を歩く

富士道(西地区の矢倉沢往還)を歩く

(渋沢駅集合) 

@ 渋沢777(渋沢会館近く) 
       地神塔 (正) 天社神
           (右) 右 ふじみち
           (左) 十日市場道             1821(文政4)

A 渋沢2247(観音堂横)
      庚申搭  (右)大山道 
           (左)ふじ さいしょう寺 みち       1808(文化5)
B (観音堂内) 聖観音  右ちむらみち  左ふじみち        1781(安永10)
↓   若竹の泉
    国学者・歌人 谷 鼎 生誕地
C 泉蔵寺  庚申搭(自然石)  右ハ十日市場 大山道    1798(寛政10)
D 泉蔵寺  庚申搭(青面金剛) ふじ道            1800(寛政12)

E 渋沢488  庚申搭(笠付き 三猿 二鶏) (左)ふじ道  1783(天明3)

F 千村1477  不動尊(台正) 川上 そぶつみち
              大山道 天下泰平 國土安全
              川下 ふじみち さい志やうじミち
          (台下) 村中繁昌 五穀成就 家内安全 子孫繁栄
          (台裏) 発願主 千村沼代 半谷作五衛門 同妻 1774(安永3)
             ※この地の小字名「屈掛」から、屈掛不動尊と呼ばれている。 
             ※矢倉沢往還が川音川(四十八瀬川)を渡り秦野に入るところ
             ※道祖神、馬頭観音が薮の中に埋れている

G 渋沢157-2 地神塔 (正)堅牢大地神 (右)右 大山道 十日市場 
            (左)ふし さ以志やうしみち       1817(文化14)
H 渋沢157-2 富士浅間大神            1880 (明治13)
I 渋沢157-2 富士講塔 報蒼天 富士山線刻 三十三度        1877(明治10)
              ※個人宅より最近移転された

J 曲松1-6-7 道標  (正)右 ふじ山 さい志やうじ道   
              左 十日市場 かなひかんをん 道 
           (右) 右 大山みち 願主當村 江戸屋喜平次  
           (左) 左 小田原 いいすミ みち 1796(寛政8)
             ※稲荷神社境内に移転
  ※この道標が立つ四つ角は、富士・最乗寺道、大山道、十日市場・金目観音道、小田原・飯泉観音道の分岐点
K 浅間社石祠                 1884(明治17)
       ※曲松1-2-16(公園)から稲荷神社境内に移転  
       ※境内には大山道・矢倉沢往還の古道解説板もある
posted by まほら秦野 at 17:07| 大山道を歩く コース編 西地区