2014年12月09日

南地区の道祖神めぐり

平成26年11月15日(土)9:00〜15:00
南地区の道祖神めぐり ― 尾尻・大竹を訪ねる ―
主催:南公民館  
協力:まほら秦野みちしるべの会

★ミニ講座 9:00〜9:30
「マラセの神について」 
師 まほら秦野みちしるべの会  武 勝美 氏

★ウオーキングコース
@・道標(万延元年・1860年)          南公民館内 今泉598
A・道祖神(マラセの神)                  今泉460
 ・道祖神(明治16年・1883年)
 ・庚申塔(延享2年・1745年)
B・道祖神(道標を兼ねる 文化5年・1808年)        今泉411
 ・地神塔(天保6年・1835年)
C今泉名水公園                     今泉台1- 18
D・庚申塔(享保16年・1733年)             上尾尻橋横
 ・道祖神(明治33年・1900年)
 ・道祖神(造立年不詳)
 ・道祖神(昭和25年・1950年)
E・道祖神(嘉永3年・1850年)               大秦町37
 ・地神塔(文化5年・1808年)
F古峰神社                         大秦町3-11
G寿徳寺                          大秦町12
 ・六十六部供養塔(明和6年・1769年)
 ・庚申塔(寛文元年・1661年)
 ・三界万霊塔(寛文3年・1663年)   
 ・百番観音堂
H道祖神(嘉永元年・1848年)                尾尻167-3
 ・道祖神(大正11年・1922年)
 ・道祖神(造立年不詳)
I道祖神(明治26年・1893年 大秦町2-16より移設)      室町2-32 
J養泉院                           室町8-18
K岳神社                           西大竹281
・百番観音塔(享和元年・1801年)  
・馬頭観音(享和元年・1801年)
・子易観世音(文化4年・1807年)               
L・道祖神(文化6年・1809年)                西大竹159
 ・道祖神(造立年不詳)

M西大竹児童館                        西大竹218-1   
 昼食 休憩 (12:00〜13:00)                
   
N・地神塔(道標 文化12年・1815年)             西大竹120
 ・地蔵(元禄元年・1688年)
 ・庚申塔(1718 享保3年)
 ・聖観音(元文元年・1736年)
O・道祖神(寛政4年・1792年)                西大竹272
 ・庚申塔(天明6年・1786年)
 ・道祖神(造立年不詳)         
P・夜泣地蔵(元禄11年・1698年)               西大竹310
 ・庚申塔(寛文11年・1671年)
 ・地神塔(文化2年・1805年)

帰路 南公民館へ


posted by まほら秦野 at 15:32| 大山道を歩く コース編 南地区

2011年01月08日

平沢・今泉地区を歩く

 平沢・今泉地区の石仏めぐり             2010年10月31日
                                                 綾部英雄

 秦野駅から土橋経由渋沢行きのバスに乗り、土橋で下車。小田急線の踏み切りをわたると、県道62号線の交差点前に土橋跡の史跡があります。この付近にはその昔、五本の大木があり、木に沿った小さな流れに土橋がかけられたことから、いつしか付近一帯を土橋と呼ぶようになったといいます。この橋は1926年コンクリートの橋になったと石碑にあります。
 道路を下ると、自然石の地神塔、后土神があり、室川にかかる向開戸橋のたもとには四体の双体道祖神がひっそりと置かれています。川の際に水神様の石祠もあり、昔は生活に欠かせない川だったことが伺えます。
 西光寺裏手の四つ角をまっすぐにいくと、三体の石仏があります。ちょうど家からでてきたおばあさんに聞くと、その中のひとつ、こじんまりと祀られた小峰神社については、今も毎月1日と15日にお供えをし、5月には近隣14軒でお祭をするそうです。信仰心の深さに頭がさがる思いでした。
 西光寺の境内には、大きな糸ヒバの木や江戸時代の相撲行司さんゆかりの墓地や、万治四(1661)年の大変古いお地蔵さんが祀られています。特にこの付近は信仰心の表れか、たくさんの石仏が見られます。子どもの頃、このあたりでよく遊んだ記憶がありますが、当時もここにあったのか、残念ながら覚えていません。ブロック塀の中の馬頭観音は私の同級生の家でしたが・・・小さなお堂にはいった如意輪観音様の脇の和菓子屋さんでお菓子を各々買って一息つきました。
 震生湖方面の峯坂手前に双体道祖神があり、左方向には后土神、道祖神。その脇の坂の途中に小さな地蔵様があります。草に覆われていて見つからず、近所の古老に聞き、やっと探しだしたものです。この地域には坂道が多く、山越えして境地区や二宮へ向かう道中の守り神として、地蔵様や道祖神が大切にされていたようです。
 これより、今泉地区。たくさんの泉が湧き出していることから今泉という地名がうまれたというように、今でもこんこんと湧き出る湧水があちこちに見られます。
 関東三大稲荷の一つ、白笹稲荷近くの地元名物うどん屋さんで昼食後、御嶽神社方面へ。この道沿いにも所々に道祖神、庚申等があり、それぞれの石仏に今でもお神酒や花が供えられています。
 太岳院近くにマラセの神と呼ばれている男性のシンボルの形をした道祖神があります。この地域には昔、男の子が少なく男の子が授かるように祈願して嘉永4(1851)年に祀られたそうです。今も1月14日には小屋が作られ、道祖神のお札売りやどんど焼きなど子どもの伝統行事が盛んに行われているのは嬉しいことです。
 小藤川(河童が住んでいて子どもをさらうので子捕り川といわれていた)をわたり、少しいくと天社神と大山への道標を兼ねた道祖神があります。
 太岳院では建築家安藤忠雄さん設計の本堂、市指定の文化財十一面観音を拝観、お茶とお菓子をいただきました。墓地には、明石原人の人骨発見者、長良信夫さんのお墓もあります。市内最古約二万年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された遺跡も近くにあり、今泉湧水地には龍と娘の言い伝えもあるそうで、ぜひ訪ねてほしいところです。
 八坂神社の大椋を見て、昔の人にとって最も大切な生活用水である荒井用水がさらさらと流れるその先に、天社神、道祖神、双体道祖神を見て、小田急踏み切り横の石受稲荷境内の市指定樹木第一号の大楠を見て散会しました。
 今回、平沢から今泉の道をまわり、数多くの石仏を見て、これらの道が昔の人の重要な道であることがよくわかりました。また、いろいろな伝承文化について、私たちの世代だけではなく、次の世代に伝えていかなければならないと感じました。
posted by まほら秦野 at 10:52| 大山道を歩く コース編 南地区

2010年08月25日

矢倉沢往還と今川町のくらし

月例学習会          2010年8月22日 東公民館
 
 矢倉沢往還と今川町のくらし
                講師 内藤 美彦氏(前秦野市教育長)

1 今川町の名称
 水無川の左岸に上河原淵、下河原淵という地名がある。この河と地名・今泉を合わせて今川(河)町。
2 今川町の道路
・旧道(夫倉沢往還)
・新道(明治34年)
・学校道(昭和8年)
3 今川町の橋
 ・秦野橋(明治34年)
  ・昭和橋(昭和6年)・…‥まはろば大橋
  ・桜橋(昭和8年)
4 小田急開通に伴う道路改修
・水無川右岸
・水無川左岸
5 今川町の町並み(昭和10年頃)
・店舗…肥料店、金靴屋、鞍屋、車大工、のこぎり屋、ふるい屋、鍛冶屋、銭湯、映画館など
・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴
6 荒井用水
  ・諏訪町の利用
  ・今川町の利用(飲用水)



今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
                     
  昭和30年代後半まで国道東京・沼津線(千村―曲松―平沢―曽屋―善波峠を通る矢倉沢往還)は今川町を縦断していた。この道は、東京オリンピックの年大きく改修され、国道246号と名前を変え、現在のルートになり昭和39年8月に開通した。
 “かかあ天下” 今川町がなぜ“かかあ天下”なのかと言えば、大正から昭和10年代、今川町には料亭が10数軒あった。料亭の経営(繁昌)は女将の腕次第だから、“かかあ天下”。
 “馬糞っ風” 12月になると、秦野名産の葉タバコの納付が行なわれる。今泉、平沢などの南地区は言うまでもなく西地区や松田方面からも、馬車や牛車に葉タバコを積み今川町通りを専売局に向う。帰りも当然この道である。
 この通りには農家を相手にする肥料店、金靴屋(馬蹄)、鞍屋(牛馬の鞍)、車大工、さらには馬の種付け屋などもあった。“馬糞っ風”は当然だろう。
 今川町の町並み(昭和10年頃)
 ・店舗…肥料店、金靴屋、鞍屋、車大工、のこぎり屋、ふるい屋、鍛冶屋、銭湯、映画館など
 ・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴

 大正年代の今川町には宝仙楼、清水家、本木家、三階家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家等々の料亭があり、芸者、半玉、仲居の女の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかしたあこがれの街であり、又、大山講中の無事下山に一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 料亭には、東北地方から小学校を中途退学して売られてきた女の子も少なくなかったようで、当局は義務教育遂行のため再就学を強行じ、年令を問わず退学当時の学年に編入させた。南秦野小学校の児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並べて学習をするそんな学校風景もあった。
 商売屋もいろいろあって、金靴屋(馬蹄)、くら屋(馬の鞍)、肥料店、鍛冶屋、鋸の目立て屋、桶屋、ブリキ屋、足袋屋、一膳飯屋、豆腐屋、医院、紺屋(染物)、床屋、雑貨屋、菓子屋、ふるい屋、竹屋、銭湯などがあったが今は全部その姿を消している。思えばこれら商家が農家と関係深い業種の多かったこともうなずける。
posted by まほら秦野 at 14:53| 大山道を歩く コース編 南地区