2014年09月28日

羽根尾通・坂本道から矢倉沢往還を歩く

古道大山道を歩く・羽根尾通・坂本道から矢倉沢往還 (落合・名古木地区) 2014年9月26日                    
         主催:東・北・本町公民館  協力:まほら秦野みちしるべの会(8名)

東公民館  9:00発

大山道道標(寺山420路傍)
↓ 西の久保湧水 首切り畑
道永塚(落合162路傍)
↓  坂本道
石橋供養塔(道標 落合278路傍)→ 光明院 → 馬頭観音 → 水神祠 → 道祖神(衝祖神)
↓  坂本道 → 伊勢原遠
地蔵堂、開進小学校跡(名古木35−2)→ 奉納塔 → 道祖神
↓  伊勢原道 → 矢倉沢往遭
百番観世音(道標 曽屋6013−9)
↓  矢倉沢往遺
地蔵立像(道標 名古木1018路傍)
↓  矢倉沢往還
善波峠切り通し(名古木1025東 路傍)

大山灯籠、双体道祖神(名古木1154西 路傍)

道祖神(市内最新 名古木1133路傍)

御嶽神社、青面金剛像(道標 名古木458)
↓ 
名古木会館(昼食、休憩)
  講座『江戸時代の庶民の旅』   謙師  武 勝美

天社神、道祖神(名古木476 路傍)

馬頭観音、庚申塔(名古木247路傍)

地蔵堂(名古木153)

東公民館 14:30着
posted by まほら秦野 at 09:17| 大山道を歩く コース編 東地区

2014年08月05日

 富士道を歩く  東田原・西田原地区


東小学校・東幼稚園職員地域研修会資料                2014/7/25

ふるさと歴史探訪 〜東田原・西田原編〜 富士道を歩く

                         講師 まほら秦野みちしるべの会 
@波多野城址
 平安末期に活躍した波多野氏の城(居住地)と考えられていたが、発掘調査などの結果から疑問が呈されている。
A道祖神(自然石・文字碑)  1806(文化8)年   東田原1533
  (正)道祖神 文化三年 いせ原口 (左)丙寅正月 大山道
B朝日神社  祭神 誉田別命    東田原1342
 「八幡宮」から「朝日神社」と改名。神道扶桑教の影響の強い地域と考えられる。
  境内に地神塔1819(文政2)年  浅間大神石嗣1895(明治28)年
C横掘り井戸 水神祠
D庚申塔                      東田原1413
  (正)庚申塔 (右)右大山 左ふじ道 (左)文政九丙戊 □切 田中
E道祖神(自然石・文字碑) 1844(天保15)年  馬頭観音
F大聖山金剛寺 臨済宗               東田原1116
 源実朝を弔って建てた寺といわれ本堂に実朝座像がある。東田原出身の画家大津雲山の墓がある。境内に田原学校跡碑(東田原1336にも田原学校跡碑あり)が立つ。庚申塔(角柱型)1683(天和3)年 東地区の石仏のうち最古(1600年代)の部類
G地神塔(櫛型・道標) 1809(文化6)年      東田原1133
  (正)堅牢地神塔 (右)東大山道
H二十三夜供養塔(自然石・文字碑)         西田原947
I道祖神(自然石・文字碑) 1847(弘化4)年    西田原971
J馬頭観音(櫛形) 1881(明治14)年       西田原781
 戦後数年を経ても、馬は農業の労働力として重宝され、屋敷内に牛馬の供養のため馬頭観音を作る家が多かった。東地区には馬頭観音が多く西田原には約30基ある。
K双体道祖神(舟型双体像)             西田原776
L猿田彦塔(自然石・文字碑) 1827(文政10)年   西田原902
M田原城跡
 小田原北条氏の重臣大藤秀信の居城といわれる。西田原香雲寺に大藤氏の墓がある。
N上宿(下宿)跡    西田原280
 富士・大山への道中宿があり、市場が立ち賑わった。曽屋村の「十日市場」の前身。
O道祖神(兜巾型) 1810(文化7)年   西田原1220
 (正)衢祖神 (左)口文化七庚午天孟春
P東田原神社 祭神 倭建命・誉田別命     東田原534
 元禄年間(1688〜1703)に創建された道明寺の観音堂。神仏分離令により明治三年に廃寺となり、村社東田原神社となる。
Q実朝公御首塚
 源実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男、11歳で三代征夷大将軍になる。1219年、実朝は鎌倉で甥の公暁に殺害された。御首は三浦の武将によってひそかにこの地に運ばれ、波多野氏により供養されたといわれる。
R共栄美田の碑
S大津雲山画伯の生家
 東田原出身の画家。幼少の頃、金剛寺に仏弟子として入門。住職から雪舟の話を聞いて画家になる決意をしたといわれる。東小学校の校長室に「秦野八景」が飾られている。
21.馬頭観音群・馬渡戸の渡し 
「馬渡戸」は「マタド」。「又ト・マタト」で、「又」は川の合流点、「ト」は場所を表す地形用語容語という説も。70年くらい前は10数基だった馬頭観音群。市内各地から持ち込まれ現在は95基。最古のものは1858年。
22.標高・緯度・経度表示盤(JAはだの東支所の敷地内)
 現地に社屋を再建した際に設置された。 




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2014年04月29日

大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く

主催・東公民館  協力・まほら秦野みちしるべの会
古道・大山道を歩く「路傍の神仏を訪ねて」  
 
第1回 東地区寺山の大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く   2014/4/3
 
東公民館 ・オリエンテーション「道祖神の形体」
↓ (マタド道)
波多野城址
(蓑毛通り)

双体道祖神    (二ツ沢庭・竹ノ内庭)            ・寺山711
 「奉造立道祖神」 宝暦11(1761)年

道祖神(文字碑)  双体道祖神    (久保庭)         ・寺山667
地神塔 市内最古で安永10(1781)年               

才戸石碑群(馬返し つたや)                  ・蓑毛141
・大山道道標 不動明王像を戴く市内最古の道標で享保20(1735)年
「右ハふし 左ハおた原」と記されているが判読は困難。
・ 道祖神(男女双体像・市内初出) 元文6(1741)年 
・ 地神塔(五角柱型 市内唯一) 
・ 浅間大神塔              

(蓑毛通りから坂本通りへ)  途中に双体道祖神・馬頭観音

双体道祖神    (横畑地区)                ・小蓑毛233
小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察。横畑地区では安産の神でもある。

(坂本通り)

大山道道標 不動明王(祠)(正)大山道 文政3(1820)年   ・小蓑毛235
平成2(1990)年に建てられた祠は平成22(2011)年3月4日に建て替え。

昼食とミニ講座 松下家(古民家)
・講座「寺山の地名」
波多野氏の居住地(波多野城)を示す古語。その他「地獄ゲーリ」「テフ塚・ちょうづか」「タカフチ・タコウチ・高取山」。

(坂本通り)

道祖神(文字碑)(角ケ谷戸庭)                ・寺山1029

武邸の屋敷神 
 庚申塔、巳待塔、稲荷祠、陽石の4体が祀られている。
東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
昭和60年(1985年)、新校舎の完成記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画制作を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。

道祖神(文字碑「久奈斗大神」)(清水庭)      ・寺山495
清水湧水池跡記念碑                      
東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会が建立。湧水は開発により平成16(2004)に消滅。

道祖神(文字碑)(宝ケ谷戸庭)                 ・寺山485
天社神                      
県道脇に立つ。市内で二番目に古い造立で寛政11(1799)年。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されている。市内三番目に古いのは寺山の鹿島神社境内の天社神で享和2(1802)年。市内最古、二番目、三番目のいずれもが寺山(村)地区に立つのは興味深い。

道祖神(文字碑) (宝作庭) 道祖神の表記に注目   ・寺山419
三界萬霊・庚申搭
宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。

大山道道標
「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。

西の久保湧水
「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)。大正8(1919)年、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。その記念碑がある。

馬頭観音群とマタドの渡し
金目川橋下流50mほどの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っていた。「マタド」に「馬渡戸」「馬渡」の字を与える研究家もいる。地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地はかつて金目川と中丸川が合流していたところ。
金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られている。この馬頭観音群の中で最古のものは安政5(1858)年に寺山村の角ケ谷戸西、二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は、明治12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和53(1978)年の建立。

庚申塔 (東公民館前) 上原 金山 関口 天保2( 1831)年 ・東田原1525 

東公民館 ・まとめの講座「金目川は加奈比可波」
posted by まほら秦野 at 15:02| 大山道を歩く コース編 東地区

2011年05月28日

大山道・蓑毛通と伊勢原道が交差する落合地区

  芝居小屋が建った稲荷神社のお祭り 

                                武 勝美

 2011年3月13日「まほら秦野みちしるべの会」は、地元の矢野恒雄さんと榎本淳一さんの案内で落合地区を歩く。総勢15名。今回は主に水源地を見ることにした。落合地区は全体に地下水が深くて縦掘り井戸はあまり活用できなかったようだ。
最初に訪れたのは地蔵山光明院の境内の横穴井戸。竹林の中のこの井戸は西落合に住む人たちの飲料水用だった。子供の頃この湧水が流れ出る沢でモズクガニを獲ったと矢野さんは話す。光明院は田山花袋の小説「おばあさんのイメージ」のモデルである堀越トミさん(この寺の住職の奥さんに当たる)の住んでいた寺。昭和37年にトミ女地蔵尊が建立された。「この辺にお地蔵さんがあったはず」と矢野さん。だがきょうは発見できなかった。
 八幡神社下の横掘り井戸は明治33年に掘られている。境内の下にまで掘り進められているようだ。コンクリートで作られた貯水池からこぼれ出る水が水量の豊かさを表していた。今も生活用水として使われていて、池に引いている家もあるとのこと。横に水神の祠があり4名の名が見える。
 延沢川を遡ると東落合の水道の水源地があった。水源と貯水槽は金網に囲まれ近づけない。水神が祀られていて、傍らに「水源ノ由来」の石碑がある。カメラに収めた画像を拡大して読んだ。要約すると「地区に井戸はあったが渇水期になると井戸は用を足さない。それで田代六太郎が十数名に諮り35円を拠出し、35間の横掘り井戸を掘った。一日の湧水は80屯。大正6年のことである。昭和52年には集落の居住者が70余戸にまで増えたが、この水源で生活水をまかなうことができた」。
 落合地区には独立行政法人の神奈川病院がある。今も地元の人たち(私も、そうだ)はその病院を「療養所」と言っている。昭和14年に「将兵療養所」として開所した。その病院の取り付け道路の脇に立つ碑に矢野さんが案内してくれた。茂みの中に倒れている碑は太い蔓に押さえこまれている。その存在はすっかり忘れられているさま。会員の二人ががんばってその石碑を起こした。碑文は「慰霊碑」。裏面には「建立神奈川県 昭和14年10月」とある。矢野さんによれば、70年くらい前「この道の脇にあった横穴に人骨がたくさんあったのを見ている」とのこと。「その横穴のあった場所はこの辺り」と説明してくれた。風土記稿には「洞穴 西方にあり 亘三尺許、入事甚深し、横に古弁天社ありしが、今は廃す」とある。慰霊碑は道を開くにあたって、その横穴を埋めたために建てられたものだろう。
 大山道を指し示す道標が落合278番地にある。石橋供養塔で、下部は地中、コンクリートで固められている。「右 伊勢□」「左 □」としか読めない。この塔の裏に榎本淳一さんのお宅がある。榎本家の屋敷内に、かつて稲荷神社(今は八幡神社境内に遷宮されている)が祀られていた。榎本さんが所蔵している古文書を見せてくれた。
 明治30年に神奈川県知事(中郡長)に申請した、榎本家他3軒で護持している稲荷神社の祭礼に芝居を興行することの申請書である。「演じ物は“勧善懲悪”もので、“風紀紊乱”ものはない。入場料無料なので税金の免除を」という内容。芝居小屋の大きさも書かれている。「間口4間、奥行き3間半」。大山道の隆盛を垣間見た気がした。
風土記稿には、落合村内に「小田原道幅九尺村の中程在 伊勢原道幅六尺東界に在」と記されている。この小田原道とは「大山道・蓑毛道」である。なお同書に「瀧 西に在 三の白瀧と呼 高さ三丈余 幅一丈許」とも記されている。     
posted by まほら秦野 at 09:30| 大山道を歩く コース編 東地区

2011年05月01日

路傍の神仏を訪ねて

秦野市立東公民館主催                        2011/4/4
「大山道を歩く」 路傍の神仏を訪ねて(第1回) 参加者30名
             講師 まほら秦野みちしるべの会 横山信子・小泉俊・武勝美 

オリエンテーション「先人たちの深い思いを秘め路傍に佇む神仏」
 路傍の神仏は庶民の心のよりどころ ・全国でもっとも多いのが庚申塔
1 秦野市内の石仏・石神(平成13年調査)
・地区別所在数  東地区560 西380 南380 本町370 北310 大根 210 上210 鶴巻100 
・石仏石神の種類
(1)道祖神碑・凡そ320(双体180) (2) 庚申塔・凡そ130 ( 3) 地神塔・凡そ100
(その他)富士講碑・凡そ30 馬頭観音碑・凡そ420(牛頭観音2)
2 富士山と大山
・コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売) ※さくらとコノハナノサクヤビメ
・オオヤマツミノカミ(大山祇神、大山積神、大山津見神)

―― 訪ねた順路 ――
1 道祖神(大山道道標を兼ねる) 文化三年 いせ原口 (左)大山道
           1806(文化3)年建立 ・東田原1533(東公民館近く)
2 水波能賣命(ミヅハノメノカミ) 2基  
           1928((昭和3)年 1940(昭和15)年 ・東田原1567
   ※馬返し つたや ・蓑毛141
3 道祖神(男女双体像・市内初出)    1741(元文6)年  ・蓑毛141
        ・市内最古の道祖神は戸川701に立つ双体像で1669(寛文9)年
        ・最新は名古木道場に立つ文字碑 2010(平成21)年建立
4 地神塔(五角柱型 市内唯一)               ・蓑毛141
       次の5神の名が見える
       ・天照大神(アマテラスオオカミ)
       ・□□(具)命、(武注:大己貴命・オオナムチノミコトのことではないか) 
       ・少彦名命(スクナビコナノミコト)
       ・埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)
       ・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
  ここには別に「天社神」碑もある。天社神も地神で秦野地方に多く見られる。地神の祭りは「社日」に行なわれる。※社日 春分・秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日。生まれた土地の産土神(うぶすながみ)に参拝する日。春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収穫に感謝する。今年は3月24日、9月20日
5 浅間大神碑                   ・蓑毛141 
6 大山道道標・不動明王(市内最古) (正) 右はふし  左はおた原
  1735(享保20)年  ・蓑毛141
7 道祖神(僧形双体像)              ・小蓑毛233
 小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察している。横畑地区では安産の道祖神としてあがめられてきた。 
8 大山道道標・不動明王(祠)(正)大山道 1820(文政3)年 ・小蓑毛235
  1990(平成2)年に建てられた祠の建て替えが2011(平成22)年3月4日行なわれた。
          昼    食
※花嫁も医者も通った坂本道(チヨーヅカのお婆と地名「地獄ケ入」「舞ケ久保」)
9 屋敷神(庚申塔 巳待塔 稲荷社 金精塔)          武敏明家
10道祖神(久奈斗大神)     1883(明治16)年   ・寺山495
11記念碑(清水湧水池跡)   2004(平成16)年   ・寺山495
12地神塔(天社神 道標を兼ねる)  左坂本 右十日市場 
  1799(寛政11)年   ・寺山485
13大山道道標 (正) さ可本  ミの毛 道     ・寺山420
14馬頭観音群    ・寺山46
15庚申塔 上原 金山 関口    1831(天保2)年   ・東田原1525(東公民館前)

まとめ  庚申塔(今年の庚申の日 1/5 3/6 5/5 7/4 9/2 11/1 12/31)
路傍に立つ石仏に、青面金剛像、三猿、鶏などが見られたらそれは庚申塔。文字で「庚申」とあるのもある。西田原・池端に立つ「猿田彦大神」と刻まれている石碑も庚申塔。
 年に6回巡ってくる庚申の夜を、3年18回パーフェクトに勤めると三尸の虫の動きは弱まるともいわれる。そのパーフェクトを記念してその講中は集落(庭)の入口近くの路傍の石碑を建立する。長寿・健康を願うだけでなく、厄難が集落に入り込むことを封じるため。だから庚申塔はわが国でもっとも数が多い石仏なのだ。
posted by まほら秦野 at 09:15| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年09月03日

蓑毛通り(富士道)を歩く 西田原から東田原へ

 西田原から東田原へ
                          横山 信子

 「田原」という地名は、「荒れ地を開拓したところ」といわれ、湧き水も豊かで、盆地内の水田地帯です。この近辺は、中世の史跡や富士山のビューポイントなどがあり、散策にはうってつけです。東西の分村は永禄(一五五八〜一五七〇)以前だろうといわれ、今も東田原の中に西田原の飛び地が多くあります。
 田原の中ほどに大山道富士道(蓑毛通り)が走り、道標に「富士、大山」と記されるなど、多くの参詣者で娠わっていたと思われます。大山と富士山は父と娘の関係で、片方だけの片参りは良くないとされ、江戸→甲州→富士吉田→松田→田原→大山(子のコースを「富士下向」という)のルートが願わったそうです。しかし、同じ女の神様だからと大山の後、江の島を目指した人も多かったとか。
 延宝八年(一六八〇)の十日市場市立申立書には、「田原村氏直様以来より罷立市御座候」とあり、北条氏直支配の頃には田原村に市があったとされています。さらに同書には、「これをつぶし、その後十日市場町に立て、さらに曽屋村内に新しく市を立てた」と書かれています。上宿から下宿にかけてが十日市場跡とされ、宿尻という地名や改築前は宿屋だったという家もあり、往時が偲ばれます。
 西田原に「堀ノ内」という小字があります。北条家人数覚書書(天正十八年)に「大藤長門守相州田原の城五十騎」と記され、大藤氏の墓所が近くの香雲寺にあることからも、秀吉の襲来に備えた小田原北条氏の家臣大藤氏の城があったとされるところです。香書寺の梵鐘は
市内に現存する中でもっとも古い部類に入るそうです。また梅の参道があり、開花時は見事です。この参道の上部からは、晴れた日に弘法山や富士、箱根の山々を望める素敵なところです。参道入口の地蔵は「いぼとり地蔵」と呼ばれ、お願いするといぼが取れると伝えられています。
 東田原神社は、江戸時代までは米倉昌尹を開祖とする道明寺という寺で、米倉家の念持仏の観音像を安置していましたが、明治の廃仏毀釈によって神社となりました。社の造りに寺の名残りがうかがえます。今でもこの神社のことを「お観音さん」と呼ぶ人もいます。
 田原ふるさと公園の一角に、実朝公御首塚があります。「一二一九年、実朝は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に参拝した折、甥の公暁に殺された。公暁は逃げる途中、三浦義村の家来に討たれた。家来の一人、武常晴が実朝の御首を持って波多野まで逃げのび、波多野忠網がこの地に埋めた。実朝を弔って建てられたのが金剛寺」などの言い伝えや民話が残ります。金剛寺本堂には、実朝坐像が安置されています。毎年11月23日(祝)には御首塚を中心に実朝まつりが行われ、稚児武者行列や数々の催し物や模擬店などで盛大です。平成十八年には秦野市市制施行五〇周年記念事業の一環で、実朝まつりに合わせ公園周辺で秦野初の流鏑馬が披露されるなど、多くの観客で賑わいました。
posted by まほら秦野 at 13:54| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年08月15日

坂本道と蓑毛道 

寺山地内を通る坂本道と蓑毛道   
                          武  勝美  
 
 寺山には古道・大山道が二本通っている。その一本が大山道坂本道(さかもとみち)。この道は東中学校の裏でバス通り(主要地方道秦野清川線)を離れ右に入っていく。今は県道大山秦野線となっているが、竹の内、二つ沢 角ケ谷戸という集落を過ぎると急な山道になっていて往時を偲ぶことが出来る道だ。
 バス停「藤棚」の三叉路に大きな道標(縦150センチ・横巾140センチほど)がある。その碑には「右さか本道」「左ミの毛道」とある。ここまでの道は大山道羽根尾道とよばれているが、ここで坂本道と蓑毛道に分かれる。左の道は東小学校の正門の前を通り、JAの支所の前で右折すると、道は秦野城址を左に見ながら東中学校の脇を通る。この道が大山道・蓑毛道(みのげみち)で、これが寺山を通る二本目の道。
 坂本道とは、今の大山町は江戸時代は坂本村と呼ばれていた、その坂本村に通じる道だったからである。蓑毛道は大山山頂に向かうとき、通過する地から付けられた名である。かつて蓑毛は大山参拝の信者の宿となる御師の宿が数軒あった。御師は神職であり、阿夫利神社参拝の案内をした。
 いっぽう、千村から曲松を経て田原を通り、寺山との境となっている金目川に沿って登る道が大山道・富士道(ふじみち)である。富士道の由来は、富士山と大山は両方登らないとご利益がないと言われていたから、大山から富士山へ、あるいはその逆コースをとる人もいて、この名がつけられた。富士山の祭神は木花開耶姫、大山は大山祇神が祀られている。大山祇神が父で木花開耶姫がその娘、親娘というより陰陽の重要さを意味していると思う。
 さて、この蓑毛道と富士道が合流するところを「才戸」と呼ぶ。「才戸」とは「塞戸」のことで「悪霊や災いの侵入を戸で塞いで防ぐ」という意味の地名。「道祖土」と書いて「さいど」と読ませる地名、姓が埼玉にあるとおり「才戸」は道祖神の意味もある。
 大山信仰のご神体は「石尊」と呼ばれるように石であって、大山そのものをも表している。この合流地点に立っている大山道の道標は市内でもっとも古いもので、享保20年(1735年)年と記されて,碑文は「右ハふし□ 左はオタ原」と読める(読めたのだそうです。今では判読できません。)
大山参詣のピークは18世紀半ばと18世紀末から19世紀初頭の二つの時期だと言われている。一夏10万人もの人が大山に登ったという。寺山地内もまた、その登山者の往来でにぎわったのだろう。
 冨士道と蓑毛道が合流した道はいよいよ大山山頂を目指すのだが、才戸の合流地点から右に分かれていく道がある。この道は500メートルほど上ったところで坂本道につながり、「いより越え」をして御師の宿・坂本村に入る。こちらの合流地点あたりを「てふづか(ちょう塚)」と呼んでいて、「てふづかにはお婆が出る」という話が伝わっている。 
posted by まほら秦野 at 19:45| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年08月02日

秦野・東地区 落合・名古木編

大山道・羽根尾通りから矢倉沢往還(落合・名古木)を歩く 2008・4・27     
 
 夜明けごろまで雨模様だったが予定通り実施。参加者は16名。東中2年生の本間、井上、飯田さんが飛び入りで参加してくれた。「みちしるべの会」は、大山道を歩きながら、地域の歴史や文化・民俗などを調べ、それらを次代に引き継ぐことを目指している。だから、会にとってこの三人の参加は限りなく嬉しいことだった。歩数1万歩超。

 大山道道標前(バス停・藤棚)
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 道永塚(明和8年・1771年)
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 石橋供養搭(大山道道標) 右 伊勢[  ] 左[  ](万延元年・1860年)
  傍にあった東落合用水池と火の見櫓(昭和時代まで落合地区の生活を支えていた)は2009年に撤去
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 地蔵堂(明治5年・1872年)通称「出口地蔵」 
 開進学校跡碑
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常夜燈 大山の夏山の間(7月27日〜8月17日)地元小金沢地区の人たちによって点されていた。一時期中断され、台座しか残っていない。   15年ほど前、地区の健康・安全を祈願することもあり復活。伏見稲荷の灯籠を用いている。
 ↓ (宮永岳彦アトリエ・遠望)
 庚申搭(貞享5年・1688年) 碑文に并椚村(ナクヌギムラ)とある
  道祖神、地蔵など。地蔵は寛文10(1670)年で東地区最古(名古木247)
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 天社神(地神)(大山道道標)左みの毛道 西沢中(文政2年・1819年)(名古木476)
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 御嶽神社
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 庚申塔(大山道道標)右ミ[  ] 左十日市場みち (名古木458・御嶽神社東側)
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 大山道道標(灯籠・火袋なし) 向かいの道祖神は献酌双体像(秦野では珍しい)(名古木1154)
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 善波峠(石仏群) 矢倉沢往還の秦野への入口
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 地蔵(大山道道標)(右)かない道(左)十日市場道(明和2年・1765年)(名古木1018・ 乗馬クラブ角)
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 「牧の木」で昼食・解散

 ※曽屋4080(こうぼうふじみ公園角)に百番観世音塔 (左)伊勢原道 (右)享和元稔 弘法山(享和元年・1801年)

 参考 名古木村(ナガヌキムラ)・風土記稿(1841)では「奈古乃幾牟良・ナコノキムラ」と仮名が振られている。「古くは并椚村(ナクヌギムラ)と書く」とも同書にある。 
(まほら秦野みちしるべの会 4月例会 )

posted by まほら秦野 at 14:00| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年07月04日

大山道・坂本道と寺山の里

大山道・坂本道と寺山の里 
   
 寺山地内を通る大山道  
 寺山には古道・大山道が二本通っている。その一本が大山道坂本道(さかもとみち)。この道は東中学校の裏でバス通り(主要地方道秦野清川線)を離れ右に入っていく。今は県道大山秦野線となっているが、竹の内、二つ沢 角ケ谷戸という集落を過ぎると急な山道になっていて往時を偲ぶことが出来る道だ。
 バス停「藤棚」の三叉路に大きな道標(縦150センチ・横140センチほど)がある。その碑には「右さか本道」「左ミの毛道」とある。ここまでの道は大山道羽根尾道とよばれているが、ここで坂本道と蓑毛道に分かれる。左の道は東小学校の正門の前を通り、JAの支所の前で右折すると、道は秦野城址を左に見ながら東中学校の脇を通る。この道が大山道・蓑毛道(みのげみち)で、これが寺山を通る二本目の道。
 坂本道とは、今の大山町は江戸時代は坂本村と呼ばれていた、その坂本村に通じる道だったからである。蓑毛道は大山山頂に向かうとき、通過する地から付けられた名である。かつて蓑毛は大山参拝の信者の宿となる御師の宿が数軒あった。御師は神職であり、阿夫利神社参拝の案内をした。
 いっぽう、千村から曲松を経て田原を通り、寺山との境となっている金目川に沿って登る道が大山道・富士道(ふじみち)である。富士道の由来は、富士山と大山は両方登らないとご利益がないと言われていたから、大山から富士山へ、あるいはその逆コースをとる人もいて、この名がつけられた。富士山の祭神は木花開耶姫、大山は大山祇神が祀られている。大山祇神が父で木花開耶姫がその娘、親娘にお参りをしなければご利益がないというのはどういう意味なのだろうか。
 さて、この蓑毛道と富士道が合流するところを「才戸」と呼ぶ。「才戸」とは「塞戸」のことで「悪霊や災いの侵入を戸で塞いで防ぐ」という意味の地名である。「道祖土」と書いて「さいど」と読ませる地名、姓が埼玉にあるとおり「才戸」は道祖神の意味もある。大山信仰のご神体は「石尊」と呼ばれるように石であって、大山そのものをも表している。この合流地点に立っている大山道の道標は市内でもっとも古いもので、享保20年(1735年)年と記されて,碑文は「右ハふし□ 左はオタ原」と読める(読めたのだそうです。今では判読できません。)大山参詣のピークは18世紀半ばと18世紀末から19世紀初頭の二つの時期だと言われている。一夏10万人もの人が大山に登ったという。寺山地内もまた、その登山者の往来でにぎわったのだろう。
 冨士道と蓑毛道が合流した道はいよいよ大山山頂を目指すのだが、才戸の合流地点から右に分かれていく道がある。この道は500メートルほど上ったところで坂本道につながり、「いより越え」をして御師の宿・坂本村に入る。こちらの合流地点あたりを「てふづか(ちょう塚)」と呼んでいて、「てふづかにはお婆が出る」という話が伝わっている。 
                                 
1. マタドの渡し
 金目川橋の下流300メートルの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っている。「マタド」に「馬渡戸」馬渡」と漢字を与える地史研究家もいるが、地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地は、かつて金目川と中丸川が合流していたところ。「馬渡戸」「馬渡」になったのは、金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られているからだろう。
この馬頭観音群の中で最古のものは安政5年(1858年)に寺山村の角ケ谷戸西、二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は次のようになる。明治が12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和53年(1978年)の建立。

2. 柄鏡形敷石住居址
寺山には寺山遺跡と金目原遺跡が存在する。JA東支所と東公民館を結ぶ県道の北側の遺跡を寺山遺跡、南側で見られたものを金目原遺跡と呼んでいる。東小学校の二階ロビーに寺山遺跡より出土した柄鏡形敷石住居址(縄文中期のもの)が復元・展示されている。金目原にいくつかあった古墳も今は1基(寺山28)が現存しているだけ。この古墳上に慰霊碑が建てられているが根拠は不明。(建立者は関野氏)。

3. 大山道道標 
バス停「藤棚」の傍らに高さ150センチほどの、どっしりした道標がある。「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。

4. 西の久保湧水
「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)だった。大正8年(1919年)、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。その記念碑もある。

5. 三界萬霊・庚申搭(宝作)
宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。

6. 武 邸 
旧寺山村の名主武善右衛門邸。武善右衛門は、実朝公の御首を波多野庄に持ってきたといわれている武常晴氏の子孫。昔の寺山村の様子がわかるのは、この家に保持されてきた古文書の依ること大。

7. 天社神(宝ケ谷戸)
寺山485・県道脇に立つ。市内で二番目に古い建立で寛政11年(1799年)。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されていて道標になっている。寺山667に立つ地神塔が市内最古で安永10年(1781年)。市内三番目に古いのは鹿嶋神社境内に立つ天社神で享和2年(1802年)。
寺山に市内最古の三体あるのは何か理由があるのだろう。

8. 東小・中学校校地内の道と大イチョウ
大山道・坂本道と同蓑毛道をつなぐ道。バス停「東中学校入口」の地点から、中学校のプール脇、小学校の南校舎の裏を通りぬける道。現在も村の道として通行している。中学校の校庭に「道」を記す白いレンガが埋められている。中学校の校庭に聳えるイチョウは、かつては武完家の庭木。銀杏が1石も採れたという話も聞いた。

9. 清水湧水池跡記念碑
 東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会によって建立された。4カ所から湧いていた清水は、開発により平成16年(2004年)にすべて消滅。

10. 東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
昭和60年(1985年)、新校舎が完成した記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。
   
11. 武 敏明家の屋敷神 
庚申塔、巳待塔、稲荷社、金精神、4体が祀られている。一軒の家に4体が、しっかりと祀られているのは珍しい。市の文化財調査報告書には記録されていない。清水自治会の「湧水池跡記念碑」建立の事業で公になった。

12. 多野城域
 波多野城のあった処を示す地名、「サーシゲート」「竹の内」「殿前」「玄蕃屋敷」「門畑」「外垣内・外」「棒垣内・外」

13. 鹿嶋神社
祭神は「国譲り」の話の建御雷之男神・武甕雷男神・武甕槌命(タケミカヅチノカミ)。円通寺には市重要文化財・十一面観音菩薩像。

14. 東秦野国民学校水道の水源地跡 
 小泉賢司さんの好意により学校は上水を確保できた。水源の改修、水道の敷設などは当時の村民総出の労力奉仕。そのお陰で私たちは学校生活ができた。水源地の上に昭和17年(1942年)建立された記念碑がある。

15. 「横畑」「イットクボ」の湧水  松下家のわさび田

16. 大山道 道標  
祠に入っている道標。不動明王像で「右大山道」とあるように道標である。野ざらしはかわいそうと、近所の人たちが祠を作った。坂本道はここからタコーチ山を登り「いより越え」をする。
地名「地獄げーり」「地獄ケ入」と「ちょうづか(長塚・丁塚)・京塚(経塚)のお婆」

17. 大山道 道標 
 曲松から東・西田原を経て蓑毛に通じる大山道・蓑毛通りと、小田原、中村、西大竹、曽屋、落合、寺山を通る大山道・羽根尾通りが合流する地点。蓑毛141の路傍に立つ。不動明王像を戴く市内最古の道標で享保20年(1735年)「右ハふし 左ハおた原」と記されてい
るが、今は判読は困難。

18. 双体道祖神(男女像)と五角柱地神塔 
蓑毛141の路傍に立つ双体道祖神は、市内初出の男女像の道祖神。元文6年(1741年)。市内最古の道祖神は戸川701に立つ相体で、寛文9年(1669年)。五角柱地神塔は市内ではここの一基だけ。

19. 馬返し 蓑毛通りと羽根尾通りの合流地点は「馬返し」と呼ばれる処でもある。松田から馬で来た旅人はここで馬を下りる。今ここが急坂になっているのは、石段を崩して道にしたから。坂の登り口に「つた屋」という旅籠があった。「つた屋」の前を二本の大山道が通っている。

金目川という川の名の由来「大口、金目原、笹川、轟、落合、大槻、金目、飯島」

20. 道祖神  
東田原1533に立つ。大山道道標を兼ねている。正面は「いせ原□」、左は「大山道」と読める。建てられたのは文化3年(1806年)正月。
 
 明け方近くまで雨。だが出発のころは曇り。「蒸し暑い日」という予報なので半そでで出かける。握り飯、魔法瓶の紅茶、カメラ、それに資料の本、こんなバッグを背負ったのは何年ぶりだろうか。重たい。大勢の神仏にお会いするのでお神酒を小瓶で持参。碑文を読むために片栗粉も準備した。
 きょうは、秦野市市制50周年記念事業として企画された『ふるさと秦野景観見て歩き・東地区』が開かれる。私はその案内人。参加者は30人ほどか(数えなかった)。東自治会連合会長の小泉さん、清水庭から洋造さん、俊さんが来てくれた。心強かった。現役のころ、一緒に仕事をした相原昭枝さんと娘さんの顔も。これには感激。地区外からも数名。まちづくり推進課から古谷課長さん以下5人も付き添い・同行。
 全行程で7キロほど、そのうち7割くらいが登り。3時間半で歩いた。横畑の松下さん宅で山葵田を見せてもらった。奥さんの自家製のこんにゃくの煮付けを、濃いお茶といただく。甘辛の味がしみこんで、歯ごたえもあり、おいしかった。もうすっかり忘れられている『東秦野国民学校の水道水源地』を、「東の子どもたちに知らせたい」と同級生の加藤さんが言った。こんな言葉を聞くと、これからも『東地区見て歩き』をやらなければ、と思う。
posted by まほら秦野 at 16:41| 大山道を歩く コース編 東地区