2011年01月10日

大山街道と阿弥陀仏越え(鶴巻地区)

大山街道と阿弥陀仏越え
                                 岩田 安雄
 昔、東海道・大磯の宿から大山へ通ずる大山街道という道があり、大山参りの大勢の人々が通ったと言う。現在の県道「大磯、鶴巻、上粕屋線」と似ている。このほぼ同じ経路を真田から鶴巻へ入り、下落幡橋を渡り石武さんのそばに善晶寺がある。その角を左折、落幡神社の後ろを抜け、大欅の手前T字路を左折、鶴巻団地入り口の右を通り抜けるとスーパークボタの横へ出る。信号のある交差点を山側へ渡り、サンライフ秦野の前を直進、鶴巻小学校と中学校の間を抜け、東名の上の窪橋を渡り、石座神社の後ろへ出る。この道が山街道である。さらに山に向かって左折し、進むと蛇久保川に出る。これを右折、川に沿ってわずか7、80メートル行くと段々の田んぼに出る。これを山に向かって登ると阿弥陀仏峠にでる。この峠を越えると、現在の伊勢原市善波(ぜんば)である。
 この善波には善波太郎重氏という侍がおり、弓の名手であり、奥方が大層美しい方であったという。その末裔の故か、私がまだ若く幼い頃、年寄りの人に問いた話であるが、善波は美男美女が多く、特に女は「善波女」と言われるぐらい評判だったので、近在(水田地帯)の男衆が競って山越えして押し掛けたそうである。今でも善波生まれのご婦人が鶴巻(落幡)真田・金目(かなめ)地区には多い。ちなみに私の母と兄嫁は善波女である。
 そのように阿弥陀仏峠を越え多くのロマンスが生まれ実ったという。いまは阿弥陀仏峠はハイキングコースに生まれ変わり、野仏の道といわれ多くのハイカーに親しまれている。
posted by まほら秦野 at 15:22| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年11月01日

鶴巻を通る伊勢原、十日市場街道

鶴巻を通る伊勢原、十日市場街道
                           岩田 安雄

 旧矢倉沢往還(県道)を笠窪の(箕輪の駅)跡を経て神明神社下から(佐野製菓前)坂道を下ると、雨沼の幡松院西光寺の門前に出る。ここを右に折れて僅かに進むと、右側に旅館梵天荘がある。その西奥に小さな石碑が建っている。これが土地の人達がいう「梵天はん」である。由来碑によれば、約二百年前、一人の修験者が行き倒れになり苦しんでいるのを土地の人々が助けたという。この修験者は、出羽三山から各地巡釈のみぎり、当地で発病、土地の人々の手厚い看病の甲斐もなく、この世を去って逝った。土地の人々はこれを哀れみ、手厚く葬り、後に供養塔を建てて供養をした。ちなみに雨沼、芦谷、谷戸では、清水、原、磯部の三家が中心となり講を作り、梵天はんの祥月命日の供養を伝承しているといわれるが今は定かではない。
 私の幼い頃には、そばに梵天池と呼ばれている小さな池があった。池には冷たい綺麗な水が満々と湛えられて、雨沼、芦谷前の水田を潤していたが今はその面影もない。
 そこから僅かに進むと日産住宅が見えてくる。それを左に見て陣屋の入り口へ進み、さらに和田さんの角、矢倉沢往還(旧県道)との分岐点三差路を右に進むと大和旅館の前に出る。百米くらい進み、みゆき旅館前で左側に折れる。ここは昔、「馬洗い戸(馬あれえど)」と呼ばれた所で、農耕馬の水浴場であった跡地である(みゆき旅館のあたり)。
「大椿(でえちん)谷戸」を経て「大上(おおがみ)谷戸」へ進む。このあたりが昔、落幡の中心であろう。なぜか北村、岩田、相原の姓が多い。大きく曲がりくねった路を通り抜けると、道祖神が見えてくる。この道祖神は、大上谷戸の大半が講中となり、守り保存してきたものであるが、先年、陣屋の宮崎様の協力により、現在のように整備されたという。そして地域の皆様により、毎日きらすことなく、綺麗な花が飾られている。
 左に上部自治会館を見て登り坂を進むと、右奥に北村バラ園の温室が見えてくる。更に進み伊藤水道屋の角を曲がると、石座神社の赤い鳥居が見えてくる。急な石段を登り台上に上がりあたりを眺めると、境内は小高い丘になっている。日本武尊命(やまとたけるのみこと)をお祀りしてある大六天はん(でえ六てん)である。御祭神は神話の中でも戦の神様として知られ、ひと際伝説の多い神様といわれている。
 神社の前を左に大きく北村さんのバラ温室を回り、山街道へ出る神社裏を北矢名の蛇窪へぬけ、菅原神社の裏、天神山を過ぎると矢名谷戸、南矢名の八幡はん。ここに右の道標があり「右伊勢原(いせばら)左十日市場町」と、記されている。瓜生野、才ケ分、本町と、弘法山の山裾を大きく迂回して、伊勢原市から秦野市本町へ進んだ街道が、徳川時代から大正時代まで(小田急開通)伊勢原、十日市場街道と呼ばれていたという。

 武注:「大椿・だいちん」(秦野弁で『でえちん』)という昔からの地名は、通称「大椿・オオツバキ(台)」となっている。

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2010年10月11日

下落幡地区を通る大山街道

 下落幡地区を通る大山街道
                    岩田 安雄

 県道(大磯・鶴巻・上糟屋線)を真田橋から落幡耕地を越え、善唱寺前(芦川はんめえ)を右に折れて進むと、奥津さん(奥津輿津金ちゃん)の角にでる。左に折れて僅かに進むと左側に深川さんのお稲荷さんと庚申塔がある。このお庚申塔には「右おおやま、左かねえ」と刻んである。ここらあたりが昔の下落幡の中心であろう。この先が中庭谷戸と呼ばれている。緩い坂を上がり切ると右角が角十(かどじゆう)さん(現当主は成田正雄はん)の四ツ角にでる。ここを右に折れれば四万崎(しまんさき)から舞台(ぶてえ)の集落。舞台の死に畑横を通り、やもめ橋(その昔、お嫁さんが渡れなかった、矢茂井橋)を渡り、平塚市の丸島、大畑、矢崎、豊田本郷へ抜ける。
 きびすを返し、角十さんの横を直進し綿屋(川瀬さん)の前を通り百b、宮川はんの大辻に出る。ここは昔から大山講の大灯篭が立つところで知られていた。
 七月の二十五日にたてて八月のお盆過ぎに取り片付ける。これは下落幡の若い衆が総出で取り行う習わしであったと聞いている。現在は、村で保存会を作り古老たちが総がかりで伝統行事の一つとして伝承しているというが定かではない。その昔から大山講の参詣者達の暗夜の道知るべ(道標)として知られてきた。
 ここは現在、ひかりの街の東南に位置する第一自治会館の前辺りである。ここを過ぎて根丸島の奉公に進むと御輿洗戸橋(みあれいど)である。昔、国府まつり(こうのまち)の御神輿揃えに、三の宮はん(比々多神社)のお御神輿さんが往来のみぎり汚れを洗い落として行かれたとの言い伝えがある。
 ここをさらに直進して久保寺はんの角に出る。根丸島の集落を過ぎ、ひかりの丘の下を僅かに行くと善波川に出る。ここが出口橋といい、伊勢原市との境界である。なぜか.ここも「でぐち」と呼び、お嫁さんが通れない場所の一つとして伝えられて来た。
 ここを過ぎ、串橋耕地の田んぼの端し右側角に道標があり、「大山街道右かねえ、左大山」と刻んである。これから串橋のもとまち、神戸の宿、三の宮谷戸、山王原、しめしき、子易明神下を通り、大山参詣の人々が登り通った道。これが大山街道である。
 舞台(ぶてい)の死に畑、やもめ橋、出口(でぐち)、板丸島めえのどぶっ田、などなどの忌み言葉の多い地名も何かいわれがあるのかもしれないが、今はすべてが定かてはない。
posted by まほら秦野 at 15:12| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年09月03日

山街道を歩く

 弘法山の麓で
                      浦田江里子

 入梅間近の六月のある日、以前にまほらの会で歩いた道をなぞってみようと鶴巻方面にでかけた。一緒に歩いたのは、子育ての悩みも、忙しさの合間のささやかな楽しみも共有してきた同世代の友人である。古道の面影を残す道を歩いて、いにしえへと思いを馳せ、小さな感動を共に味わいたい気持ちもあった。
 河原町から平塚行きのバスに乗り、瓜生野入口で下車、うとう坂へ。切り通しの道は、奈良時代の土器が出土したことから、古代の主要道と考えられている。左手が下大槻、右手が南矢名。付近はこんもりした地形から中世には城があったともいわれ、城山(じょうやま)の呼び名がある。明るい舗装道に木漏れ日が光る。吹き抜ける風が気持ちいい。その道をしばらく進み三界万霊塔を目指すが、見つからない。同じ道を三往復して、あきらめて戻る。このあたり、みかん畑の脇や民家の裏手に古道の名残が見られる。草むらに埋もれ、忘れ去られた道の痕跡に、過去への入口を見るようで、これが古道歩きの魅力かとも思う。
 手作り家具工房前の林に沿った道を入り、数十メートルほどゆるやかに登ると「地蔵の入り」。薄暗い木立のなかに、たくさんの五輪塔が並んでいる。昭和50年代に散在していたものを集めたという。傾いたもの、欠けたもの、崩れかけたもの、苔むした小さな塔は四十基を超える。よく見ると、地蔵菩薩が二体。20cmほどのお地蔵さんは室町時代に作られた。ここは墳葬の場所だったという説もある。木枝にほうきが掛けられている。見ず知らずの魂にささやかな供養の気持ちを引き継ぐ人がいるのだろう。
 徳川家から領地5石の朱印を受けた寺、龍法寺の広い境内でひとやすみ。元住職の星野さんは高校生の頃、寺裏から鎌倉時代の貴重な屋根瓦を掘り当てた。今も大切に保管された瓦を手に、熱く語る星野さんを思い出した。郷土に歴史があり、人はそんなふるさとに愛惜の念をもつのだな、としみじみ思う。
 旧大根村の鎮守、八幡神社本殿は三本の柱を持つ珍しい形式だが、バブル期に本殿が覆われ、重厚で厳かな建物が全く見られないのは残念だ。社裏から自興院への道は、みずひき、高野ぼうき、やぶらんなど小さな野草を探すのも楽しい静かな道。夏に訪れた時は、ふりそそぐ蝉しぐれに追いかけられるように歩いた。今はうぐいすやシジュウカラ、野鳥の声に癒される。「いせはら」「十日市場」を示す途中の道標にはお不動さんが掘り込まれ、ここにもほうきがかかっている。古来、信仰心厚い人々にとって、道祖神や道標を守ることは旅路の安全を祈願することに通じたのである。
 民家の間を通り、小屋に入った道祖神を拝み、石塀の上、茶畑の片隅にひっそりと立つ庚申塔を見つける。風雨にさらされ、人々の心が離れ、朽ちるばかりとなった、思いのしみこんだこの石はどうなるのだろうか。
 菅原神社の石段を上り、のどかでひなびた「野仏と温泉の道」を歩き、石座神社へ。幼稚園帰りの親子が数組、遊具で遊んでいた。私が子供だった頃もこんな光景があった。森を作る神社の境内は、いつの時代も懐かしく心に響く場所なのか。ご神体は日本武尊(やまとたけるのみこと)が腰掛けた巨石で、その上に本殿が建っているというが、いつもながら伝説の証が見たいと思うのはここでも同じ。が、巨石の存在も神秘のベールに包まれているからこそ、ありがたみも増すのかもしれない。
 国道を横切り、鶴巻公民館で一息つく。一日つきあってくれた友人は「知らないところを知るのは楽しい。歩いてみるといろいろな発見があるね」。私の聞きかじりの中途半端な知識も少しは役にたったのかな。
 同じ秦野といえども、弘法山のこちらとあちらでは、住む人の思いが違うように感じる。東・西地区では大山の存在が大きく、人々の生活に弘法山はあまり登場しない。それに比べて大根・鶴巻地区では、生活の根っこに弘法山の存在がある。武士の時代には城郭として、その後は信仰心の拠り所として、人々が仰ぎ見てきた弘法山は、取りも直さず、特別なものとして語られるようである。それは、秦野の中で大山道だけ見て歩いてきた私には新鮮な感動だった。
 目に見えるものは廃れても、奥底に受け継がれる感覚は今も人々の心に息づいている。それを次世代に伝えていこうと、熱心に資料をひもとき、研究する人もいる。そして、小さな新芽のように、古いものが、少しずつ、新しく、語られ始めてもいる。この流れがどこへいくのか、過去を学ぶごとに興味も増す昨今である。
posted by まほら秦野 at 13:59| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年08月12日

矢倉沢往還新道(南矢名、鶴巻)を歩く

矢倉沢往還新道(南矢名、鶴巻)を歩く 2009・12・6
 
 講師 高橋  登氏
 秦野高校下車→根古屋館跡→日枝神社→前田夕暮生家跡→東光寺薬師堂(昼食)→宿矢名→二子塚古墳→東海大北門一落幡神社・大えのき→下部灯籠→酉光寺→梵天荘→鶴巻駅)
・矢倉沢往還新道:明治34年(1901)改築の結果、矢倉沢往還は四つ角より右折し、秦野往還(平塚街道)東端に至って分岐し、大根村に入る道が新道となった0人力車・荷車・荷馬車のため。
・根古屋館跡:平安時代末期に野田左衛門、失名三郎という武士の屋敷跡と伝えられている。堀之内や的場、馬場という地名や堀屋とよばれる家もある1179年野田氏が納めた釣鐘が東光寺薬師堂あったそうだが現在は残されていない。
・日枝神社:以前は、根古屋城の鬼門に建てられていたが、昭和の初め、小田急線工事のため取り壊された。現在の場所は、江戸時代に地蔵堂があり、廃仏毀釈で空き地となり、ここに建立された。
・前田夕暮:本名洋造。明治16年、大住都大根村大字南矢名に生まれ、20歳のとき大磯で「湘南公同会」を設立し、西行の「嶋立つ沢の秋の夕暮」から号をとった。
・東光寺薬師堂:鎌倉時代末の寄木造りの薬師如来像(片手薬師)と平安時代中ごろの一木造りの聖親音菩薩像の2体は秦野市指定文化財。
・宿矢名:風土記稿によれば、毎年7月12日、12月24日には市立てがあって盆会・歳始の用具が売られた。これを矢名宿市という。
・二子塚古墳:市内唯一の前方後円墳で、昭和58年(1983)に神奈川県指定の史跡となっている。昭和45年(1970)に行われた調査で丘陵先端の丘阜を利用して築造され、中世に墓地として用されていたことがわかった。平成20年の調査で、前方部及び復円部に盛土がされてい
ることがわかった。
・大えのき:巨木や榊を崇拝する文化が古代中国に起き、新羅を経て出雲に伝来して以来、巨木は天孫降の柱と考え神木としてたたえるようになる。
・下部灯籠:毎年お盆の時期(7月25日〜8月18日)大山参りの道しるべの小屋掛け灯籠が建てられる。
・西光寺:「中将姫がまんだらを織る図」中将姫の伝説。石打場、矢先、落幡、幡掛けの松
・梵天さん:出羽三山の修験者がこの地で入寂し、供養塔がたてられた。山の手が梵天山と呼ばれていたことから「梵天さん」と名付けられた。

 大山道道標(鶴巻第一自治会館敷地・鶴巻南4−8−2)‥延享4年(1747)左かない道右大山道
 大山道道標(鶴巻南3−10−26):(左)左 大山道(右)右 かない道
 庚申塔(鶴巻南3−5−20):文化7年(1810)右かない道 左大山道
 大山道道標(鶴巻北3一卜1):大正4年(1915)(正)此方 武相街道 (右)此方 比々多村 伊勢原町道 (左)此方 上落幡 北矢名道       (記録 横山)

posted by まほら秦野 at 09:44| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年07月04日

大山道と下部灯篭 鶴巻地区

鶴巻・下部の大山灯篭立て   
                     武 勝美 

相州・大山(1252m)の夏山は7月27日から8月17日まで。大山の夏山は、江戸時代は「一夏10万人」とも言われたように参拝者でにぎわった。その夏山詣でをする信者のために、秦野市鶴巻の落幡地区の人たちが夜道の道しるべとして、今から300年ほど前から灯籠を立てあかりを点してきた。
 毎年7月25日に、1坪ほどのお堂を組み立て、中に灯籠を立てる。この日は落幡・下部(かつての下落幡村)の鶴巻第1太鼓保存会(会長・宮川輝雄)の会員が20人ほど参加。年配者が指揮を執りながら若い人、と言っても40代? 屋根に上がり汗を流した。
 猛暑の中1時間半ほどかかっての組み立ても注連縄を張って終り、ろうそくに火が点された。そしてお神酒が捧げられた。お神酒は地元の銘酒『鶴巻』と『大山』だった。
 鶴巻第1自治会館の庭に立つこの灯籠の脇に、「左かない道 右大山道 延享4年(1747)」とやっと読むことがてきる道標が立っている。30年くらい前までは、8月14日〜16日の月遅れのお盆の間、大山山麓では夜中に大山にお参りする『盆山』という行事が盛んだった。平塚から金目、そして落幡を通り伊勢原を抜け大山に続くこの道を歩いた参拝者は、下部灯籠の灯をたよりに大山に向った。だが、この大山道は今は車の迂回道となり、この灯籠に気づく人は少ない。
 今年も地元の人たちは交通安全と五穀豊穣を願い灯篭に24夜、ろうそくを点す。

下部灯籠について
・灯籠の高さ95a 幅65センチ
・灯籠を支える六角柱に記されている文字
 (正面)奉献燈 石尊大権現(石尊大権現=大山そのものを神としている尊称)
 (裏)明和6年建立
 (裏右)文政5年再造
 (右前)大天狗 下落幡邑中(邑中=村人を表す)
 (左前)小天狗 若者中
  ※大山と天狗について 天狗は山の神の化身。鳥取の大山(ダイセン)にいた伯耆坊という天狗が後に大山(オオヤマ)に移ってきたといわれている。 夏山の参拝者は「奉納大山石尊大権現 大天狗 小天狗 諸願成就」と書かれた木太刀を厄除けとして納めた。
・灯籠を覆う堂宇 東西・南北共に一辺245a 高さ300aの切り妻型
dohhyo.jpgkumitate.jpgkumitate2.jpgtoro2.jpgomiki.jpg
posted by まほら秦野 at 17:34| 大山道を歩く コース編 大根地区