2014年08月05日

 蓬莱橋をわたる古道   秦野市曽屋中野・斎ケ分地区


蓬莱橋をわたる古道                井口 けんじ

6月8日、この日は月例の学習会で、「中野地区」の実地調査。参加者は十名。地元の関口康彦様のご案内で、最初に向かったのは金目川に掛かる蓬莱橋。
水かさは普段より多いものの、清流であった。ここ金目川の川幅は5、60mで、この辺りからは丹沢連峰は見えない。しかし、その山稜から流れ出る金目川、葛葉川、水無川の三支流に、渋沢・千村辺りからの室川が合流して一本の金目川となる。それも此処から上流2、300mのわずかの区間である。そして平塚市内を流れ、花水川となって相模湾に溶け込む。
橋を渡ると丁字路になる。右は明治26年頃に造られた「矢倉沢往還新道」である。江戸時代に整備された、矢倉沢往還は今川町方向から四ツ角を真っ直ぐ 抜けて、国道246号線の直前を右にまがり、善波峠を抜ける山越えである。それに比べこの「新道」は、秦野本町の四ツ角を右に折れて才ヶ分―大根―鶴巻を通り、桜坂で国道に合流する。
今日は蓬莱橋の丁字路を左に曲がって、江戸時代に作られた「平塚道(波多野道)」を逆に行く。平塚本宿―金目―宿矢名―堂坂・うとう坂―中野―蓬莱橋―波多野庄(十日市場・曽屋)、これが平塚道(波多野道)。道はすぐに上り坂となる。中野自治会館あたりからは右に大きく曲がる。しかしここで平塚道に一旦分かれ、左にそれる。
すぐ右手の石段を登ると、日蓮宗・法光山 長源寺の境内となる。 見晴らしの良い境内だ。四百年程前に開山され、ご本尊の曼荼羅と十五体の佛像が明るい本堂正面に安置され、大切にされてきた様子がよくわかる。
 権現山の南斜面を喘ぎながら関口さんの後に続く。赤い鳥居と石段を見つける。白山神社だ。古びた社とお稲荷さんがあった。ここでも道祖神などをメンバーはあちこちと探し回ってから境内を出る。
 畑道を700mほど曲がったり下ったりすると、平塚道に再び合流する。そこには長源寺の門石の七字題目塔が立つ。並んで立つのは三界萬霊塔。宝永七年(1710)造立、「やなむらかんおんミち」と道標の役目も果たしている。脇囲いの石塀に小さな文字道祖神がちょこんと据えられていた。
 古道を左に行くと馬頭観音が奉られている。なにやら文字が刻まれている、判読にみんな色めき立つ。「星」は読めるが、次に読める文字が見つからない。やがて一番上の文字は「右」かな、それならば道標も兼ねるのだが、それにしても判読が難しい。用意した片栗粉化粧を施す。右ではなく、造奉の「造」と判読。このまま行くと、うとう坂を経て、実朝公の御首塚の伝承で知られる宿矢名の八声橋を通り、金目に接がる。 
 
「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」
 と詠んだ郷土の歌人・前田夕暮の生家(南矢名)はここから近い。夕暮が学んだ秦野高校もすぐそこに。箱根、富士を眺望するこの辺りで青春の葛藤のときを過ごされたのではないかと思いをめぐらせる。今年は夕暮の生誕百三十一周年にあたる。
 今日歩いた距離はやっと3Kmと短いが、興味深い街道の接点であった。

posted by まほら秦野 at 07:44| 大山道を歩く コース編 本町地区

2011年01月27日

「台町の今昔」に学んだこと

「台町の今昔」に学んだこと 
   ふるさとを愛し 育て 次世代にしっかり手渡そう
                                   浦田江里子

 台町自治会・長寿会共催で行われた「皆で語ろう台町の今昔」に参加した。10年前に行われた語り部の会に続く第二弾とのことである。「昔から住み続けている人も少なくなり、年を重ね、台町の良さを知るにつれ、心寂しくなっていく。10年前、長寿会の方に語っていただいたビデオ映像は今になってとても貴重と感じる。知らなかったことを知って、後世に受け継いでいこう」と、主催の自治会長さんのあいさつがあった。最高齢94歳の清水さんの自伝的語りも味わい深く、地域の歴史を刻んできた人々の思い出語りに耳を傾ける穏やかなひとときだった。
 帰宅後、自治会長さんが丹精こめて作ったと思われる資料をじっくりと見た。現在の地図上にかつての賑わいの跡が記されている。様々な場面を切り取った写真には、私の知る秦野とは違う街が見える。三角屋根の駅舎、大山遠望の鉄道、入船橋の夕涼み、なかなか風情ある景色ではないか。

軽便鉄道台町駅
 交通の歴史を垣間見る馬車小屋や人力車営業所跡も地図には記載されている。大正2年、馬車に替わり誕生した軽便鉄道は、葉たばこ、落花生、秦野木綿などを運ぶ秦野の産業の担い手であった。ひっくり返れば大人が寄り集まって車両を起こし、坂にかかれば乗客が降りて後押しする。ガキ大将の指揮のもと、置石して汽車をとめては車掌に追いかけられるやんちゃもいたし、沿線で夏は氷、冬は蕎麦を売る人もいた。「遊んだ記憶はあるが乗った記憶がない」と参加された方々。それなのに、軽便鉄道にまつわる話は尽きず、一様に笑顔がこぼれる。町をぬって走る小さな汽車が、暮らしの中で生き生きと活躍しているようすが目に浮かぶ。

秦野座跡
 今で言うなら文化会館! 歌舞伎役者が往来し幟はためく地域の拠点。芝居がある日は商店街も遅い店じまいで一層活気づいたという。この堂々たる外観で、秦野座は人々のエネルギーを生み、発散させてきたに違いない。しかし、戦後はアパートに、昭和60年には解体された。時代の流れに抗うことはできなかった。

「青物市場・魚市場跡」市場は生活の基盤。馬車・牛車が行き交う街道では、馬糞、牛糞を踏まずに歩くことにずいぶんと神経を使ったというのは実話である。
 金目川から分かれる今はない「井守川」。川を利用して作られた50mプールがあったという。底はコンクリートで固めてあるものの、川であることには変わりない。魚と一緒に泳ぎ、水の冷たさは半端でない。10年間のプールの歴史には、ロサンゼルス五輪出場選手も泳いだという華やかなエピソードがある。
 私が思わず見入ったのは、昭和初期の曽屋神社祭礼の写真。台町の山車をバックに90人ほどの法被姿の子どもたちが写っている。紅白に飾られた柱、幕、しめ飾り、ちょうちん、晴れ着の女の子、うちわ片手の男衆。一年一度の大祭に、緊張感と気合が見える。全盛期には近隣の町村から50万人が参集したとは本当だろうか。この日ばかりは軽便鉄道も大増発して満員御礼であったらしい。南地区出身の友人の話が頭をよぎる。曽屋神社のお祭の日は一族そろって神輿の宮入りに立ち会うのが子どもの頃から恒例で、結婚した今も、これは何よりも優先するのだと。熱い思いを引き継ぐ人も僅かながらいるようだ。
 年齢とともに強まる思い。それは、郷愁、寂寥、焦りさえ覚えるほどの、自分のルーツ、環境への愛着かもしれない。住み続けている場所ならなおさらだろう。会の最後に紹介された梶山家(立花屋半兵衛茶舗)系図(30年前、小学生だった息子さんが調べたという)は、一つの家族の歴史を辿るものだが、家族の歴史は同時に地域の歴史を伝え支えるもの、と気付かされた。
 私を育ててくれた風景を懐かしく感じ、受け継いできたものを大切に思い、これからもずっと、これまでと同じように我が子に語り、示していくことを大事にしなければならないな、と会の趣旨に賛同しながら、学び、再認識したのである。 (記・2011年1月23日)

posted by まほら秦野 at 09:43| 大山道を歩く コース編 本町地区

2010年07月26日

矢倉沢往還・曽屋村を歩く

 曽屋村は矢倉沢往還に大山道羽根尾通り、平塚道が交差し、西には富士道が通る、交通・交易の中心地。道標には「十日市場(トウカイチバ・トウカチバ)」と記されるものもある。 

 入船橋のたもと(入船町7−23)
 ↓ 馬頭観世音 安政2年(1865)左十日市場
   百番供養塔 など

 庚申塔 大山道道標 嘉永4年(1851)左いせ原道 右大山道(入船町4−2)
 ↓ 
妙法寺 白玉鴨居稲荷
 ↓  専売公社敷地内(現ジャスコ)にあった鴨居稲荷を妙法寺の白玉稲荷へ合祀。
    平将門の言い伝え

NTT(軽便鉄道秦野駅跡)明治39年馬車鉄道 秦野一二宮間営業開始。大正2年軽便鉄道株式会
 ↓ 社に改称、のち湘南軌道株式会社。昭和12年運行終了
 
 十日市場の板碑(宇山邸奥庭に稲荷社と共に安置)十日市場は曽屋村に開かれた市場で、矢倉沢
 ↓ 往遼の中継地で、伊勢原や小田原方面との商品流通や、大山、富士参詣の人々で賑わった。宇山邸は磨き漆喰の壁を持つ。
 
 大山不動尊坐俊 文久3年(1863)(元町6−30)
 ↓
 曽屋みち 古峯神社→ 塩蔵→ 大用寺内(不動尊(1887)(右)伊勢原道 町内中)→ 
曽屋観音堂・薬師堂→ 曽屋神社・井之明神社・護国神社    
 ↓                                       
 曽屋配水場 曽屋水道、曽屋用水跡
 ↓
 水神石嗣・曽屋水神(水神町10−40)
 ↓
 乳牛通り→ 不動石祠(乳牛水神)→ 天徳寺→ 八幡社
 ↓    
 上宿観音堂(行基作 千手観音菩薩)
 ↓
 普川邸 秦野で一番古い本格的洋館で大正末のモダニズム建築の特徴を表す二階建て切妻建築。木骨モルタル造りである。
                                         (記録 横山)
posted by まほら秦野 at 14:10| 大山道を歩く コース編 本町地区