2012年03月04日

富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる

2012年2月8日

富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる
                                       武 勝美

 東名高速道の富士インターを降り、西富士道路 → 国道139号 → 県道71号をおよそ25km、40分ほど走ったところに人穴浅間神社(富士宮市人穴208)がある。祭神は木花開耶媛命(コノハナノサクヤビメノミコト)、そして藤原角行と社頭の案内板に記されていた。木花開耶媛命は富士山の祭神、それと伍して祀られているのが藤原角行。

 藤原角行とは、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10・1541年〜正保3・1646年 長谷川角行・藤原武邦とも称した)という行者。江戸時代「江戸八百八町、八百八講」といわれたほど隆盛を極めた富士講は角行によって創唱された。
角行は人穴で千日間立ち行の末に悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めた。富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で入寂したと伝えられている。
 人穴神社に着いたのは午後4時ごろ。まだ成木とはいえない杉林の中に神社はあった。
参道で行き会ったのは地元のテレビのクルー5人だけ。遺跡復旧のレポートのためか、それとも心霊スポットの取材なのか。神社の近くに民家はあまり見えない。鳥居の前に立つ今風の建築様式の家から犬が私たちを警戒?歓迎?し、吠え続けていた。

 人穴浅間神社の境内右手に溶岩洞穴「人穴」がある。記録によれば「主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。洞内には江戸時代に作られたとされる石仏が安置されている」とある。最奥からさらに細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もある。
 江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講信者は富士登拝をすませると人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされる。


境内に林立する富士講の碑塔

 境内の左手には富士講の記念碑・供養塔などの碑塔が林立している。その数約230基。造立者には江戸、安房、上総、下総などの住人もいて往時の富士講の隆盛のしのぶことができる。その碑塔が立つ場所は縄が張り巡らしてあり「立ち入り禁止」となっていた。2011年3月15日、静岡県東部を震源とする震度6強の地震が、碑や塔を崩したり傾けたりしたからだ。人穴も覗くことはできなかった。富士宮市はこの人穴富士講遺跡の復元に入っているらしく、参道の入り口近くに教育委員会の事務所が設けられていたが、人影はなかった。


富士を拝み、富士山霊に帰依する

 秦野市内に現存する富士講碑、浅間大神塔などは20基を超えている。秦野を通る富士道がたどり着くところがここ人穴。「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い教えの富士講。白装束に金剛杖で六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)清浄を唱えながらひたすら富士を目指した人々。それは一種の新興宗教のブームのようなものだったのかもしれない。しかし、ひたすら修行を重ねた人々の心は清らかだった。
 人穴地区の氏神だった人穴浅間神社は、昭和17年、国の命令で地区民とともに強制移転させられ、昭和29年ようやくこの地に戻ってくることができた。
時の流れ、生活や文化の進歩、変転がもたらしたものとはいえ、ここに心のよりどころを求めた人たちの今の姿・塔碑は哀しいものにしか見えない。だが、それはまた百数十年を超えた今も、信仰に生きる人たちの確かな心・姿を私に伝えてくれた。夕陽に染まり始めた富士を帰り際に見ることが出来た。


資料にみる「人穴」

『吾妻鏡』
 源頼朝が富士の巻狩りの際、仁田四郎に人穴探索の探索を命じられた。だが人穴で従者4人が突然死し、やっとの思いででてきたという記述がある。
『御伽草子』
 『富士人穴草子』では「人穴は地獄である」と綴られた。人穴が恐怖の対象として見られていたことが分かる。
 これらが今「心霊スポット」として知られていることにつながっているのではないか。もちろん、現在の人穴神社の風景が生み出す雰囲気も心霊スポット的であるが。
posted by まほら秦野 at 13:58| 大山道を歩く エッセイ編

2011年08月31日

道祖神の里めぐり 群馬・高崎市倉渕地区(旧倉渕村)

 ああ、おおらかな神様たちよ

 『奥の細道』の序章に「道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより」という一節がある。
 この夏、宿願だった群馬・高崎市の倉渕地区(旧倉渕村)と長野・安曇野市穂高地区(旧穂高町)の道祖神に会い出かけた。

8月16日
 午前9時少し前、倉渕地区の入口で出会ったのが抱擁する道祖神。高崎市教育委員会の解説書には「特異な抱擁像」とある。像の側に立つ旧倉渕村教育委員会の案内板には「浮世絵を思わせるような夫婦和合像」と記されていた。道祖神は複合信仰の神で、塞の神、岐の神、結縁の神、子宝の神、豊作の神など万能の神。この抱擁像の他にも、女性の胸元に手を滑らせているもの、下半身に手を伸ばしているものなど、おおらかな神様がいくつも見られるのが倉渕の双体道祖神の特徴の一つ。秦野地方では全く見られない道祖神像である。            
 水沼坂下の握手像はガイドブックなどにも載る特徴のある道祖神。今回ぜひ会いたいと思っていた道祖神さん。お盆で倉渕に里帰りしている女性に出会ったので、像のありかを尋ねたが自信のある答えはもらえなかった。集落からの道が大きく回りこんでいる山道の陰に、頬を寄せ合っている道祖神さんがいらっしゃった。仕草・表情はまさに夫婦円満の象徴。明るい開けた場所に立たせたい。
 長井地区の「百庚申」と呼ばれているところには6基の道祖神があると資料に紹介されている。林道の脇の階段を登ると、生い茂る夏草の中に庚申塔が林立している。文字通り「百」はありそうだった。その庚申塔群の奥に道祖神が祀られている。この地に立つ道祖神と庚申塔は道路改修の際、ここに集められたらしい。
 長井を通る信州街道は草津温泉に続くので、草津街道とも言われ多くの旅人が行き来した。6基の双体道祖神の中で「御高祖頭巾」の像は「優雅て逸品」と記録されているが、時を経たことと修復とでその価値をうかがうことが出来なかった。倉渕にしかない「元禄びな」と呼ばれる坐像の双体道祖神もある。冬の陽だまりの中で6体に再会したいと思った。
 「優雅」な道祖神といえば下諏訪神社境内に立つ酒器像は「天下逸品」と地元でも評されている。天明8年・1788年の造立だから220年を経ているのだが、その控え目な上品な表情は時の流れと共に美しさを増している。
 倉渕地区は道祖神の宝庫といわれている。77カ所、114基という数はもちろん、造形的に見ても優れたものが多い。こんな素朴で優雅な倉渕の道祖神さんが平成3年盗難に遭い、まだ倉渕に戻って来ていない。その話を聞かされたあと、迷い込んだ小さな集落の入口で平成6年に造立された双体像に出会った。その穏やかな表情から、今も道祖神と共に生活しているこの地区の人々の心の豊かさを感じた。

   http://echo-take.sakura.ne.jp/の「ギャラリー」のページに
  『道祖神の里めぐり』群馬・倉渕地区と長野・穂高地区の道祖神の写真を掲載しています。
  お訪ねください。
posted by まほら秦野 at 14:55| 大山道を歩く エッセイ編

2011年06月27日

難読地名・名古木のルーツを示す庚申塔

地名・名古木のルーツを示す庚申塔(名古木247番地)
                                      武 勝美

 千昌夫の知られている歌の一つに「味噌汁の詩」がある。「へぇーそおか おまえさんも東北の生まれか」というセリフが入る歌である。
 2009年1月29日、JAはだの主催の「千昌夫ショー」でのこと。その日も千さんは「味噌汁の詩」を歌った。そしてセリフの「東北」という部分を『ナガヌキ』と入れ替えた。会場がドッと沸いた。入れ替えられた『ナガヌキ』は秦野市の東地区の一地名で、難解な地名の一つとしてネット上でも取り上げられている。『ナガヌキ』を文字にすると「名古木」。「名古木」を『ナガヌキ』とは読めない!
 『新編相模國風土記稿』は「名古木村」を「奈古乃幾牟良」と振り仮名を付けている。風土記稿が編まれたのは天保12(1841)年だから、その時代「名古木」は「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ばれていたことになる。同書に「古は并椚村とも書す・玉傳寺、慶安2(1649)年の御朱印及鐘銘等に見ゆ、其唱は同じ」とある。
 今からおおよそ320年前の貞享5(1688)年、名古木247番地の路傍に庚申塔が造立された。その塔の左面に造立者名と地名が刻まれている。地名は相州大住郡并椚村とある。
 并椚村の『并』は『幵(パソコンではこの文字が対応)『並ぶ』に近い意味を持つ。漢和辞典(新明解・第一刷)では『并』は『並』と同じ部首にある。だから『并』=『並・ナ』と読んだ。『椚・クヌギ』は古くは「クノキ」とも読まれ(呼ばれ)ていた。碑文の「并椚村」は「ナクノキムラ」と読むことができる。
 『大山不動霊験記・寛政4年』は寛永時代(1624年)から寛政4年(1792年)までの大山不動の霊験あらたかな話が131話収められている。その中の第93話は『相州長軒村』市五郎の話である。この書の研究者は長軒村を名古木村としている。この書の成立年からすれば、寛政4年(1792年)には名古木は「長軒(ナガノキ)」と呼ばれていたと推測できる。
 
 今、読み方が難しいと言われている「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った。

地名『并椚』はどういう意味を持つのか
 古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
 『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
 「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる。

「并椚村」と刻み込んでいた庚申塔が、3月11日の東北地方太平洋沖地震で倒壊。二つに折れ、地名の部分は剥落し粉々になってしまった。4月10日、地元の人たちによって塔は修復された。

    

                  
posted by まほら秦野 at 14:35| 大山道を歩く エッセイ編

2010年08月14日

東田原八幡・清水の水神様の祭り

2003年4月1日 富士道を歩く 東田原八幡・清水の水神様の祭り 
 祭神は97、92、86歳の大女性  
                               武 勝美
        
 東地区の湧水のことを少し調べていた私に、東田原の八幡に住む大津俊彦さんから「うちらが使っている湧水について取材に来てよ。年寄りがいなくなる前に記録しておきたいから」と電話があった。毎年4月1日に、今も裏山の湧き水を飲料水に使っている4軒が、そのお礼のお祭りを水神さんの前でするというのだ。
 その日はうす曇りだった。祭といっても特別な神事を行うわけではない。湧水を引き出している横穴の前に水神さんの碑がある。その碑にお線香を上げて(神様に線香というのがイイ) 、持ち寄ったご馳走を食べる。
 明治32年2月1日に建てられた碑。碑文は「水神」とあり、下に「六分大津啓次郎 四分同大次郎  同元吉  同喜平  同庄平次」とある。「六分、四分」は水の使用権利を表しているのだろうか、それとも経費を記録したものなのか。最初は五軒でこの水源を使用し、維持・管理していたようだ。戦後、そのうちの一軒がこの地を離れた。その折、水利権の消滅をはっきりさせるため使用していた導水管がはずされた、との説明があった。
 祭りを行う現在の四軒のうち、大津秀雄家、大津俊彦家、大津隆之家の三軒は飲食にこの水を使っている。とくに大津健一家は、市営の水道水は引き込んでいない。酪農を営んでいる俊彦さんが笑いながら言った。「牛に飲ませるのは市営水道の水、人間は山の神さんの水を飲んでいる」。
 案内されて、祭りの場所に行くと、すでに一人のお年寄りが水神様の横に座っている。大津アサさん・97歳で「花を飾っておくと鴉が来て悪さをするので、番をしていたのよう」と話してくれた。10 時過ぎ、このアサさん、大津チヨさん・92歳、そして大津イネさん・86歳を中心に4軒から8人が集まってきた。最年少はイネさんの孫で学生の有希さん。それぞれが線香を手向け、祝宴に入った。主賓はもちろん三人の大女性、いや祭神かもしれない。大きく敷かれたシートの上に、太巻き寿司、押し寿司、いなり寿司、お赤飯のおにぎり、煮しめ、漬物、テンヨセ、ぜんまい、ウドなど、それぞれの家庭がを持ち寄った自慢のものを並べる。ビール、日本酒があることはいうまでもないこと。三人の大女性の嫁さんが三人(千代子さん、美津江さん、早苗さん)―60代後半の方もいた―もその席にいた。自治会長でもある秀雄さんが、アルコールが入ったこともあり、巧みな話術で女性陣の笑いを誘う。

 アサさんから水源を掘り当てた時の話を聞いた。「おじいさん(アサさんにとって祖父なのか、父なのか、夫なのか、そのあたりを確認しなかったのは失敗)から聞いた話だけど…」「ここで水を探して横穴を掘っていたら、下の道を通った道者が西に向かって掘るといい、と言った。それで、そのとおりに掘ったら大きな石に突き当って、その石の裏から水の音が聞こえた。それがこの湧き水だと」。居合わせた人たちにとって、この話は初めて聞く話だった。(私が取材に来たとことで陽の目を浴びた話。)
 「父ちゃんが戦争に行っている間、役場の人が何度も道を広げるから畑を出せと言いに来てよう、それでここに、こんなにまっすぐな道ができたのよう。ホントの道は田中から来てここで曲がって、金剛寺に行く道だったんだよう」。イネさんの話で昔の村の道、大山道・富士道のルートを知ることもできた。言われてみれば、村の真ん中に大山道の道標があるわけも納得できる。
 今年で104年、毎年この4軒が楽しく集まるから、おいしい水が湧き続いたのだろう。湧水で結びついた四軒の絆、そしてこの場の雰囲気は、私たちがもう遠に忘れてしまっていた≪隣り近所≫というものを思い起こさせてくれた。2時間あまり、私はほんとうに心地よい場所に居させてもらった。水神の碑の横に純白で端正な花弁の韮の花が、そして上に真っ赤なやぶ椿が咲いていた。
 「山の神」と呼ばれる地の裾で、山からの恵まれる湧水を今も利用しているのは、この大津四軒組のほかに、同じ八幡地区で三軒組、二軒組。更に東に回って金山と呼ばれる地区で五軒と古谷家、合わせて十五軒あるという。大津四軒組の小字名は八幡・清水という。
posted by まほら秦野 at 16:01| 大山道を歩く エッセイ編

2010年08月08日

8月26日は『ロクヤさん』 蓑毛・小林庭

8月26日は『ロクヤさん』 蓑毛・小林庭
                                     武 勝美

 大山道・蓑毛道の「馬返し」の所には、33段の石段があったと言われている。そこは今、その石段があったことをうかがわせるに十分な急な坂道となっている。
 坂の脇に、今も「つたや」で通じる家がある。母は「つたやは大山参詣の人たちの宿」と言っていた。そして、「その裏に才戸のお堂があった」とも。その「つたや」の綾子さんから、「8月26日には、お堂の中の物が見られるから来てみたら」と誘われていた。
 その日の11時、今は道路拡張とのかかわりで蓑毛下会館に名前を替えている「お堂」を訪ねた。会館には20名ほどの人が集り、赤と白の幟を立てる準備をしていた。男性の湯山さん、井上さん、江原さん、石垣さん、中村さんの5人は顔見知り。彼らに話を聞かせてもらった。「お堂」とは宝蓮寺持ちの観音堂のことだった。
 最年長の男性・高橋さん―たぶん80歳代だろう―の指示を受けながら、私も竹竿に幟を付けるのを手伝った。かつて在ったと言われている石段に替わり、会館に登るコンクリート製の階段が設えてある。その階段に沿って33本の幟が立てられた。
 1 杉本観音 2 岩殿観音 3 田代観音 4 長谷観音 5 飯泉観音 6 飯山観音 7 金目観音 9 慈光寺 10 巌殿観音 11 吉見観音 12 慈恩寺観音 13 浅草観音 14 弘明寺 15 白岩観音 16 水澤観音 17 出流山観音 18 立木観音 19 大谷観音 20 西明寺 21 八溝山観音 22 北向観音 23 佐白観音 24 雨引観音 25 大御堂観音 26 清瀧観音 27 飯沼観音 28 滑河観音 29 千葉寺 30 高倉観音 31 笠森観音 32 清水観音 33 那古観音。そして階段を登りきったところに、館内の厨子に祀られていた十一面観音菩薩像を安置し、脇にひと回り大きい「観音堂霊場」と記された白の幟が立つ。
 午後2時を目安に、三々五々お参りの善男善女が集ってくる。この日に才戸の観音さんにお参りすると、坂東三十三番の札所を全て回ったのと同じご利益があるのだそうだ。皆さん、会館(観音堂)を一回りするように歩き、最後に幟の立つ階段を上がり観音さんに線香を手向ける。
 お参りが済むと『ロクヤさん』の念仏講が始まる。『ロクヤさん』とは「六夜祭」を親しく呼ぶ言葉で「二十六夜講」のこと。江戸時代から続いていたと思われるこの『ロクヤさん』、2年前に講中が二人になってしまったので「終りにしよう」とした。だがその消滅を惜しむ人たちの後押しで存続させることになり、昨年から本格的に動き始めた。この日、念仏講に参加したのは39人(男性6人)だった。
 先達は松下菊枝(88)さんと 湯山富江(84)さん。昨年出直したばかりのこの念仏講には50代の女性も加わっている。皆さんが神妙な顔つきで唱えるお念仏は、聞き馴れているお経のリズムとは少し違って聞こえた。だが、声はめっぽう大きく明るかった。ほほえましくさえ感じた。私も自然に唱和していた。
「南無、不動、釈迦、文殊/普賢、地蔵、弥勒、薬師/観世、勢至、阿弥陀、阿閃(あしゅく)、大日、虚空蔵」と、十三仏の尊称を13回唱えるのがこの念仏講である。
 終わってからの和やかな懇親会は、昔と変わらない『ロクヤさん』となった。
 家族の健康を願って参拝 昭和二十年代までは芝居がかかり、露店も出たという『ロクヤさん』のお祭り   かつてここには宝蓮寺の観音堂があった 会館の裏手に秦野市最古の、不動明王を戴く大山道の道標が立っている。昨年、再発足した念仏講 だからまだ経本は手から離せない 観音さんにお参りした人と念仏講の皆さんとで懇親会
 厨子に安置されている弘法大師像
後藤慶明作 安政4年(1857)   
 お念仏を唱えている皆さんの前に鎮座ましますのは弘法大師さま。前垂れを掛けているので「おびんずるさま」かと思った。
「鎌倉扇ケ谷住 大仏所後藤斎宮慶明 安政四巳年(1857)十二月 日」が頭部内に、「向原某、江原某、鈴野某、湯山某、高橋某」などと像底に書かれている。

蓑毛下会館内の厨子に納められている掛け軸
その日、厨子に納められている掛け軸も見せてもらった。私が理解できたものは次のものだった。
1 石尊大権現(大山講) 2 徳一菩薩(大山寺)徳一上人の生まれは常陸。奈良の興福寺で修行した法相(ほっそう)宗の高僧。後に関東の山岳宗教の発展に貢献した。弘法大師・空海と同時代だったので気脈は通じていた。空海が東国順錫で大山に登ったとき、徳一上人の勧めで大山寺三世に名を連ねたという。 3 天社神(地神講) 4 白笹稲荷(稲荷講)  5 弁天(巳待講) 6 山の神(山の講)。これ等の多くは小林庭の講中のものようだった。

 ※二十六夜講 月待ち講といわれ、特定の月齢(二十六)の夜、月の出を待ちながら勤行や飲食、歓談をする。月が昇ると《心願》し解散する。二十六夜の月は、明け方前に昇る三日月。その月光の中に阿弥陀三尊が姿を現すといわれている。



posted by まほら秦野 at 15:44| 大山道を歩く エッセイ編

2010年07月22日

今はかそけき道 矢倉沢往還

今はかそけき道 矢倉沢往還   
                        井口けんじ

 秦野市内を東西に通過するのが国道246号線。市民なら誰でもが利用する大切な生活道路だが、その大本は江戸時代に整備された矢倉沢往還。
 矢倉沢往還は東海道の脇街道として人と物資の往来が賑やかだったようだ。この往還は伊勢原から善波峠を越え、大山を右手に見ながら、やがて西の出口である千村に通じる。ところがその古道が千村を抜けると忽然と姿を消してしまう。
 「秦野に住んできた人たちには《心の道》とも言えるこの古道が、秦野の西の出口付近で消えようとしている」と、武先生から幾たびも聞いていた。このことを極言するなら、秦野の住民の一人である私としては《不名誉》なことと思っていた。
 この季節には珍しいほどの暖かな好天の日曜日の2月22日、「みちしるべの会」は、地元・千村の小野さんの案内で「矢倉沢往還」を歩いた。総勢18名はバス停「堂坂」で小野さんと落ち合い、矢倉沢往還に向かった。
 白山神社、泉蔵寺を見て廻り、紅梅がひときわ美しく咲く集落を離れると、道はなだらかな上り坂になり、やがて視界が一挙に広がった。そこは食用として全国に知られている千村の八重桜の丘。丹沢の遠望と重なって華やかな桜に埋め尽くされる景色が、冬の今でも容易に想像できた。道はこの丘の頂上付近で矢倉沢往還に接ながっていた。
 その地点で小野さんは、「昔は、この坂を昇りきって一休みする行商人や旅人のために、大きな石の碑が立っていた」。それが誰も通らなくなってしまったので「石碑も寂しいだろう」と、人通りの多い道端に移した、と話してくれた。それかか今、萩が丘・二ツ塚の桜の古木と共に立つ「富士浅間大神」碑である。
 軽トラが入れるほどの道幅は、やがて、笹竹や雑木で覆われる暗く細い道になる。ごつごつと角張った石が枯れ草や落ち葉にうずまり、降った雨水が地表をいたる所で掘り下げていて、まるでガレ場。だが、いたるところに刈られた笹が敷き詰められたようになっていた。私たちが「来てくれる」というので、小野さんが草刈をして下さったのだ。そのご苦労、そしてなによりその心根に熱い思いをいだきながら、ゆっくり矢倉沢往還を下った。
 曲がりくねった切り通しのような急な坂を下ると、あたりが急に開けた。その瞬間、強い日差しの中を電車が走りさって行くのが見えた。なぜか鉄輪の音は聞こえなかった。私には目の前の現実を認めるのに少々時間がかかったようだ。一本の鉄路が、道のもたらしてきた文明や文化を遮断しているように思えた。江戸時代は人馬の継ぎ立て地でもあった千村、ときには大名の行列も通った千村のこの道は、記憶の中からさえ消え去ろうとしている。
 千村に生活した先人たちは、安寧な生活をねがい、車の往来が激しくなることを嫌って、矢倉沢往還を国道246号線にするのではなく、四十八瀬川の西側に新しい道をつくらせたのだという。だが、小田急線の開通により今度は道の遮断ということになり、人々の往来は途絶えた。
 忘れ去られそうな千村地区の古道・矢倉沢往還を案内をしてくださった小野さんとお別れするとき、「これからもお元気で、村の生活を楽しんでください」との思いでいっぱいになった。

posted by まほら秦野 at 08:59| 大山道を歩く エッセイ編

2010年07月19日

大山道を歩く楽しみ 

 大山道を歩く楽しみ           
                         浦田江里子

「大山道」(おおやまみち)をご存知だろうか。単なる登山道ではない。かつて人々が心の拠り所とした大山信仰、大山へつながる参詣道だったのである。
 毎朝、眺めるあの大山は、豊作・豊漁・商売繁盛・安全・雨乞いなど実にさまざまな祈願にこたえてきた山である。二度の山津波に見舞われながらも人気は衰えず、江戸時代全盛期には関東一円に4000組もの大山講(信仰集団)が形成された。数々の伝説をもち、落語にも登場する、富士山に並ぶほど庶民には馴染みの山だった。
 秦野に暮らして十余年、その歴史を学んだのは武先生との出会いがきっかけである。私にとって大山は足慣らしの山だったが、視点を変えると、教科書にはない大山に、意外な史実があることを知った。身近な地域だけに興味も湧く。
 傾いた道標、たくさんの馬頭観音、当時の賑わいの跡、参道の苔むした石段、川原の石さえ、心を向ければ語りだす。喜んだり、じっと耐えたり、何かを支えとしたり、その時代の人々が生きて生活してきた証を見るようだ。
 四月のある日、「まほらの会」で大山道を歩いた。善波峠の切り通し道にたたずむと、数百年の時も軽々超えられそうだ。きっと、ここは、ずっと昔から風の通り道なのだ。新緑の揺れる木漏れ日に、旅ゆく人々も風を感じ、心を癒したに違いない。
 首のない道端のお地蔵さんには、石の頭がのっている。いつ、だれが、のせたのか。何度も石は落ちたのだろう。そして何度も石はのせられたのだろう。人々は、目的地に続く道をとても大切にし、道を辿る人々の安全を道祖神やお地蔵さんに託したのである。すぐ下には国道を途切れなく走る車の流れ。はやくはやく、とせかされながら、私たちはいろいろなものを削ぎ落としながら、ここまできてしまったのだろうな、とも思う。
 歩いていると、いろいろな発見や驚きに出会う。もしかしたら人は、歩く速さでしか物が見えないのではないか。いにしえに想いを馳せ辿る大山道は、わが街秦野の絶好のウオーキングコースであり、ふるさとを知り大切に思う心に通じる道のような気がする。



 
posted by まほら秦野 at 14:50| 大山道を歩く エッセイ編

2010年07月18日

寺山地区の路傍の神仏

 寺山地区の路傍の神仏                         武 勝美
 
 石くれにちかき仏にいちょう散り誰も払わぬほほえみ二つ   三枝 昴之
 今もひっそりと道路脇に立つ道祖神や庚申塔などと彫られた石碑は、遠い昔からその地に住む人たちにとって大切な神様であり仏様であった。秦野市にはそうした神仏が2548基あると報告されている。(『秦野の石仏』・秦野市教育委員会刊・平成8年)
 地区別にみると、東地区560基 南388 西387 本町370 北318 大根315 上210、となっており東地区が突出している。東地区では、寺山171基 西田原113 名古木85 蓑毛72 東田原58 落合37 小蓑毛24と報告されている。これらは碑文だけの文字塔、神や仏の浮き彫り、丸彫りの3種類に大別できる。ここでは、寺山の路傍の神仏を訪ねてみたい。

1 馬頭観音
 馬頭観音は牛馬の供養塔。寺山では95基が金目川橋脇に祀られている。明治以降に祀られたものが多く、最古は櫛板型で弘化2年(1845)、寺山1029番地に祀られている。牛頭馬頭観音は2基あり、その1基は昭和20年(1945)秋に寺山念仏講によって建立されている(金目川橋脇)。 
(1)馬頭観音から往時の地名を探ることができる
  金目川橋脇の馬頭観音群の中に、安政5年(1858)に建立された舟型馬頭観音像がある。建立者は「寺山村 角ケ谷戸西 清水 二ツ澤 竹之内 久保」となっている。同じ地に櫛板型のものもあり、そこには「宝作 坊ケ谷 庭中」とある。こちらは建立年不明。円通寺境内に舟型の馬頭観音像が一基祀られていて、それには「法作 棒垣外」とある。「坊ケ谷」「棒垣外」は現在の宝ケ谷戸、「法作」は宝作である。
(2)馬頭観音から分かる寺山の住人
馬頭観音には施主(祀った人)の名前が記されている。次は寺山地内の馬頭観音に記されている人名である。(姓のみは省いた)
寺山の人
遠藤愛治郎・光枝 遠藤庄吉 遠藤徳次郎 遠藤俊夫 桐生松太郎 桐生弥太郎 久保田利助 
小泉三郎 小泉忠司 小泉春吉 小泉洋司 鈴木夏造 関廣蔵 武鎌太郎 
武憲冶 武熊太郎 武善右ヱ門 武周造 武鉄蔵 武彦次郎 武政士 
武蓑之助 武茂市 古谷嘉左ヱ門 古谷和夫 古谷俊 古谷清兵ヱ 古谷徳太郎 
古谷弥栄 前兼吉 松木貞夫 水野富雄 山口伊勢吉 

他地区の人
青木仙司 青木峯雄 大津猛 大津芳雄 小澤幾蔵 小澤春吉 小澤山吉 
小澤義雄 片倉卯三郎 小泉国三郎 佐藤初司 関野一雄 関野カツ 関喜三郎 
関野松次 高橋信太郎 須山平吉 泉谷鉄之助 吉川市造 横溝貞忠 横溝忠次 横溝米吉

2 道祖神(「 」は碑文)
・宝 作   櫛型「道祖神・昭和37年再建」(寺山419)
・宝ケ谷戸  自然石「道祖」(寺山485)
・清 水  自然石「久奈斗大神」・明治16年(1883) (寺山495)
・二つ沢 竹の内  舟型「奉造立道祖神」・宝暦11年(1761)(寺山711)中丸橋脇
・角ケ谷戸  自然石「道祖神」(寺山1029)
・久 保   自然石「道祖神」(寺山667)
・横 畑  舟型双体像(小蓑毛233)
 清水の道祖神「久奈斗大神(久那斗大神が一般的である)」は塞の神(せえのかみ)で、奈良・平安初期に京都でおこなわれた道饗祭りの祭神である。2月と12月に京都四隅の入口の道に食べ物を置き妖怪に食べさせ、市内に入るのを防ぐのがこの祭り。

3 庚申搭
 寺山には青面金剛像・三猿のものが5、文字塔が3ある。現存する寺山最古の石碑は、宝作の入り口(寺山419)に立つ「三界萬霊庚申塔」で、庚申塔の特徴である三猿の顔が地上ぎりぎりのところに見える。延宝元年(1673)に建立された。

4 巳待塔
 「おひまち」という言葉もずっと昔のものになってしまった。「己巳の日」に集り福富を願って弁財天の精進するのが巳待講。これもの「おひまち」の一種。寺山では、鹿島講、稲荷講、天神講、山の講、地神講、古峯講などがおこなわれていた。
上記の調査報告書によれば秦野市内に巳待塔はない。財弁天さんの像が巳待塔の特徴。武敏明家に祀られているのは舟型弁天像。武さん宅に巳待塔があることが分かったのは、清水湧水池跡の記念碑を建立した平成16年(2004)である。

5 地神塔
・地 神 久保(寺山667) 安永10年(1781)
・天社神 宝ケ谷戸入り口(寺山485)  寛政11年(1799)
・天社神 鹿島神社境内 享和2年(1802)この3基が市内最古の1〜3。

6 大山道道標
 大山道の坂本道と蓑毛道が通る寺山だが、その道標は1基だけ。藤棚バス停の脇にある。(『寺山ものがたり』の表紙参照)
正確には寺山地内ではないが、横畑(小蓑毛235東)にある「大山道標不動尊」は寺山村と蓑毛村が文政3年(1820)年に建てたもの。この道標についてのエピソードは『寺山ものがたり』の「はじめ」に書いた。

7 水 神
 この調査の時点では寺山には2基あった。一つは西の久保の水田の脇に立つ「水波之賣神」碑。大正8年(1919)その年の水飢饉のために、田んぼの所有者が横堀り井戸を掘り、祀った。他の1基は寺山477にあった水神石祠。この水神は清水湧水池のために祀られていたが、その後の開発により“行き方知らず”になってしまった。どこかの地で新たな水の神になっていることを願うばかりである。

8 金精神(こんせいじん)
 子宝や安産の神で男根の形に工作したものと自然石の石棒とがある。寺山では武敏明家の屋敷神として男根のものが祀られている。壊され石棒状となったものも寺山地区内でいくつか見られる。市内では今泉のマラセの神が有名。

9 浅間講碑
 浅間講は冨士山信仰の講のこと。「浅間大神」の塔碑が鹿島神社の境内にある。明治15年(1882)に建てられた。「当所丸滝・浅社中」とあり、この地に浅間講があったことを表している。

10 徳本念仏塔
 宝作入り口(寺山419)に立つ。正面に「南無阿弥陀仏」と徳本の花押がある。徳本上人は厳しい修行を行いながら南無阿弥陀仏を唱えて日本全国を行脚し、庶民の苦難を救った江戸時代の念仏行者。徳本上人の書かれた「南無阿弥陀仏」の文字は丸みをおび、終筆がはねあがり、縁起が良いといわれ、徳本文字と呼ばれている。

11 清水湧水池跡記念碑
 平成16年(2004)7月に清水自治会によって建立された寺山でもっとも新しい碑。
碑の裏に建立の理由が次のように記されている。
「先人たちの命の泉であった湧水『清水』は、この地に埋もれたが、東小学校・東中学校の校歌として『清水ヶ丘』の『希望の泉』と、子どもたちに歌い継がれる」 バス停「東中学校前」脇にある。

12 波多野城址碑
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて成長した領主、波多野氏の居館として古くから言い伝えられてきた波多野城の址。それを記す碑が大正8年(1919)、東中学校の校庭の西側の台地に建立された。

13 地 蔵
 寺山にも都市化の波は容赦なく押し寄せ、記録にはあるが現実に姿を消した石碑もいくつかある。たとえば宝ケ谷戸入り口(寺山485)には、路傍に置かれるには珍しい丸彫りの座った地蔵さん(身の丈40センチ)が居られたが、今はその姿は見られない。

14 道永塚碑(寺山と落合の境)と供養塔(通称「首切り畑」地内)

野仏や路傍神は、病気や怪我をしないように、生活が平穏でありますように、豊かな実りが得られますように、という村人たちの切実な願いの依り代だった。こうした庶民の篤い信仰は江戸時代に大いに広がり、第二次世界大戦中も続いた(昭和20年・1945年に馬頭観音碑が寺山念仏講によって建立されている)のだが、終戦とともに急速に廃れ始めた。
 たとえば金目川構わきの馬頭観音群は昭和50(1975)年に調べたときには二十余基だったが、現在は九四基が祀られている。これは、道路改修や住宅地の開発さらには住居の新改築により、馬頭観音さんがその地を追われここに集められた結果である。
寺山の里に点在する路傍の神仏を訪ねる小さな旅に出よう。そして路傍の神仏から歴史や風土を知り、先人たちの生活文化をしのびたい。

posted by まほら秦野 at 17:14| 大山道を歩く エッセイ編

2010年07月04日

富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる

「富士道(東田原・西田原)を歩く」

東公民館(9:30)

道祖神(大山道道標)

朝日神社 祭神・建速須佐之男命 誉田別命(ホムタワケノミコト) 
 八幡神社・祭神・誉田別命 明治初年の神仏判然(分離)令により朝日神社になる。1713年以前の造宮。 
 八幡地区の「道切り講」

庚申搭(大山道道標)

地神塔(大山道道標)

谷戸の湧水 地名清水と田端 

田原城 小字・堀ノ内にあったと思われる。 後北条氏(北条氏直)が秀吉の襲来に備えた。大藤長門守が50騎で相州田原の城を守備した、という記録(北条家人数覚書)。

香雲寺 山号は大珠山春窓院(520年以前に開山)羽根村より大藤式部少輔政信が移築。大藤氏の墓所。 

八幡神社 両部鳥居(厳島神社) 
 神明鳥居(島木鳥居・伊勢神宮) 明神鳥居(笠木鳥居)

上宿・下宿と十日市場  宿を営んでいたという野田家、和田家より話を聞く

東田原神社 祭神・倭建命 誉田別命  地元の人たちは観音さんと呼ぶ道明寺。米倉丹後守昌伊の冥福を祈って元禄年間(約300年前)に創開。 神仏分離により神社に 
 ※東田原神社で解散



「大山道《富士道》を歩く」
 東田原地区の水神さま巡り
 研修コース
 1  庚申搭   上原 金山 関口 大口
 2  道祖神・道標(左側に)大山道  (正面に)道祖神 いせ原
 3  水神石祠と横掘り井戸 大津家 
 4  朝日神社と八幡宮
 5  浅間大神石祠(朝日神社境内)  中道講社中
 6  地神塔(朝日神社境内)  堂切 関口 金山 上原
 7  水神碑と横掘り井戸        大津4軒組
 8  水神碑3基 中庭取水場
 9  庚申搭・道標(右大山 左ふし道) 田中 道切
 10 大聖山金剛寺
 11 地神塔 東大山道
 12 実朝公御首塚
 13 ふるさと公園


(資料)
田原村 観応元年(1350年)の古文書には「田原村」と記録があるので、まだ東・西には別れていなかった。風土記稿(1841)には「東西分村の年代許ならず」とあるが、「永禄の頃(1550年代)既に東西の唱ありしなり」とも記している。同書には「村の中程に富士大山への通路幅二間、あり」とある。金目川の川幅六間 井ノ代に高さ一丈五尺、幅六尺の「天ケ瀧」があることも記録されている。
posted by まほら秦野 at 16:50| 大山道を歩く エッセイ編