2014年08月05日

 富士道を歩く  東田原・西田原地区


東小学校・東幼稚園職員地域研修会資料                2014/7/25

ふるさと歴史探訪 〜東田原・西田原編〜 富士道を歩く

                         講師 まほら秦野みちしるべの会 
@波多野城址
 平安末期に活躍した波多野氏の城(居住地)と考えられていたが、発掘調査などの結果から疑問が呈されている。
A道祖神(自然石・文字碑)  1806(文化8)年   東田原1533
  (正)道祖神 文化三年 いせ原口 (左)丙寅正月 大山道
B朝日神社  祭神 誉田別命    東田原1342
 「八幡宮」から「朝日神社」と改名。神道扶桑教の影響の強い地域と考えられる。
  境内に地神塔1819(文政2)年  浅間大神石嗣1895(明治28)年
C横掘り井戸 水神祠
D庚申塔                      東田原1413
  (正)庚申塔 (右)右大山 左ふじ道 (左)文政九丙戊 □切 田中
E道祖神(自然石・文字碑) 1844(天保15)年  馬頭観音
F大聖山金剛寺 臨済宗               東田原1116
 源実朝を弔って建てた寺といわれ本堂に実朝座像がある。東田原出身の画家大津雲山の墓がある。境内に田原学校跡碑(東田原1336にも田原学校跡碑あり)が立つ。庚申塔(角柱型)1683(天和3)年 東地区の石仏のうち最古(1600年代)の部類
G地神塔(櫛型・道標) 1809(文化6)年      東田原1133
  (正)堅牢地神塔 (右)東大山道
H二十三夜供養塔(自然石・文字碑)         西田原947
I道祖神(自然石・文字碑) 1847(弘化4)年    西田原971
J馬頭観音(櫛形) 1881(明治14)年       西田原781
 戦後数年を経ても、馬は農業の労働力として重宝され、屋敷内に牛馬の供養のため馬頭観音を作る家が多かった。東地区には馬頭観音が多く西田原には約30基ある。
K双体道祖神(舟型双体像)             西田原776
L猿田彦塔(自然石・文字碑) 1827(文政10)年   西田原902
M田原城跡
 小田原北条氏の重臣大藤秀信の居城といわれる。西田原香雲寺に大藤氏の墓がある。
N上宿(下宿)跡    西田原280
 富士・大山への道中宿があり、市場が立ち賑わった。曽屋村の「十日市場」の前身。
O道祖神(兜巾型) 1810(文化7)年   西田原1220
 (正)衢祖神 (左)口文化七庚午天孟春
P東田原神社 祭神 倭建命・誉田別命     東田原534
 元禄年間(1688〜1703)に創建された道明寺の観音堂。神仏分離令により明治三年に廃寺となり、村社東田原神社となる。
Q実朝公御首塚
 源実朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝の次男、11歳で三代征夷大将軍になる。1219年、実朝は鎌倉で甥の公暁に殺害された。御首は三浦の武将によってひそかにこの地に運ばれ、波多野氏により供養されたといわれる。
R共栄美田の碑
S大津雲山画伯の生家
 東田原出身の画家。幼少の頃、金剛寺に仏弟子として入門。住職から雪舟の話を聞いて画家になる決意をしたといわれる。東小学校の校長室に「秦野八景」が飾られている。
21.馬頭観音群・馬渡戸の渡し 
「馬渡戸」は「マタド」。「又ト・マタト」で、「又」は川の合流点、「ト」は場所を表す地形用語容語という説も。70年くらい前は10数基だった馬頭観音群。市内各地から持ち込まれ現在は95基。最古のものは1858年。
22.標高・緯度・経度表示盤(JAはだの東支所の敷地内)
 現地に社屋を再建した際に設置された。 




posted by まほら秦野 at 08:06| 大山道を歩く コース編 東地区

 蓬莱橋をわたる古道   秦野市曽屋中野・斎ケ分地区


蓬莱橋をわたる古道                井口 けんじ

6月8日、この日は月例の学習会で、「中野地区」の実地調査。参加者は十名。地元の関口康彦様のご案内で、最初に向かったのは金目川に掛かる蓬莱橋。
水かさは普段より多いものの、清流であった。ここ金目川の川幅は5、60mで、この辺りからは丹沢連峰は見えない。しかし、その山稜から流れ出る金目川、葛葉川、水無川の三支流に、渋沢・千村辺りからの室川が合流して一本の金目川となる。それも此処から上流2、300mのわずかの区間である。そして平塚市内を流れ、花水川となって相模湾に溶け込む。
橋を渡ると丁字路になる。右は明治26年頃に造られた「矢倉沢往還新道」である。江戸時代に整備された、矢倉沢往還は今川町方向から四ツ角を真っ直ぐ 抜けて、国道246号線の直前を右にまがり、善波峠を抜ける山越えである。それに比べこの「新道」は、秦野本町の四ツ角を右に折れて才ヶ分―大根―鶴巻を通り、桜坂で国道に合流する。
今日は蓬莱橋の丁字路を左に曲がって、江戸時代に作られた「平塚道(波多野道)」を逆に行く。平塚本宿―金目―宿矢名―堂坂・うとう坂―中野―蓬莱橋―波多野庄(十日市場・曽屋)、これが平塚道(波多野道)。道はすぐに上り坂となる。中野自治会館あたりからは右に大きく曲がる。しかしここで平塚道に一旦分かれ、左にそれる。
すぐ右手の石段を登ると、日蓮宗・法光山 長源寺の境内となる。 見晴らしの良い境内だ。四百年程前に開山され、ご本尊の曼荼羅と十五体の佛像が明るい本堂正面に安置され、大切にされてきた様子がよくわかる。
 権現山の南斜面を喘ぎながら関口さんの後に続く。赤い鳥居と石段を見つける。白山神社だ。古びた社とお稲荷さんがあった。ここでも道祖神などをメンバーはあちこちと探し回ってから境内を出る。
 畑道を700mほど曲がったり下ったりすると、平塚道に再び合流する。そこには長源寺の門石の七字題目塔が立つ。並んで立つのは三界萬霊塔。宝永七年(1710)造立、「やなむらかんおんミち」と道標の役目も果たしている。脇囲いの石塀に小さな文字道祖神がちょこんと据えられていた。
 古道を左に行くと馬頭観音が奉られている。なにやら文字が刻まれている、判読にみんな色めき立つ。「星」は読めるが、次に読める文字が見つからない。やがて一番上の文字は「右」かな、それならば道標も兼ねるのだが、それにしても判読が難しい。用意した片栗粉化粧を施す。右ではなく、造奉の「造」と判読。このまま行くと、うとう坂を経て、実朝公の御首塚の伝承で知られる宿矢名の八声橋を通り、金目に接がる。 
 
「向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ」
 と詠んだ郷土の歌人・前田夕暮の生家(南矢名)はここから近い。夕暮が学んだ秦野高校もすぐそこに。箱根、富士を眺望するこの辺りで青春の葛藤のときを過ごされたのではないかと思いをめぐらせる。今年は夕暮の生誕百三十一周年にあたる。
 今日歩いた距離はやっと3Kmと短いが、興味深い街道の接点であった。

posted by まほら秦野 at 07:44| 大山道を歩く コース編 本町地区

2014年04月29日

会報「まほら秦野みちしるべ」第5号

会報「まほら秦野みちしるべ」第5号(2014年4月27日発行)

no41.jpg

no42.jpg
posted by まほら秦野 at 16:18| 活動の歩み

上地区の史跡めぐり

主催:秦野市立上公民館 協力:まほち秦野みちしるべの会

上地区の史跡めぐり  2014年3月25日

オリエンテーション(9:00〜9:30)
 『道祖神の形態』武勝美(まほら秦野みちしるべの会)
コース:上公民館(9:30)→小原地蔵堂 →長屋門 →頼朝塚 →三廻部用水 →三廻部自治会館(昼食)
→観音院(13:00〜18:30)→住吉神社 →金刀比羅宮石祠 →道祖神 →上公民館(15:00)

@小原地蔵堂(菖蒲1782)
・庚申塔 文政11(1828)年 道標
・双体道祖神 寛保3(1743)年
・出羽三山供養塔 弘化2(1845)年
・馬頭観音など
A馬頭観音 昭和6(1981)年(三廻部43-1)
B庚申塔 元禄6(1698)年(三廻部187)
C頼朝塚(三廻部442)
・頼朝供養塔 村人が築いたとされ、頼朝の没年と戒名が記されている。
・道祖神 享保7(1722)年 舟型
  縦に分断され右半分だけ残っている。このような例はあまりない。
D三堀部用水
 室町時代初期のものとされる。四十八瀬川から引かれ、昭和30年に簡
 易水道が整備されるまで、農業用水、生活用水として使用された。
E三廻部自治会館(三廻部669)昼食
F観音院(三廻部653)孫彿山福聚寺 天台宗
 戦国時代に金沢というところで金銀砂が見つかり、一時鉱夫などが大勢集まり、
 寺も移されたが、その後、元の地に戻ったという。
 曽我兄弟が工藤佑経を討つため、柳川の不動院に奉納した願文が保管されている。
G住吉神社(三廻部739)村の鎮守
 標高850mの高台にある。戦前、神社前の坂は「住吉坂」といい、三廻部と寄を結ぶ重要な道だった。
H柳川金刀比羅宮石祠(柳川753)ゴルフ場造成により移動
 社号塔 天保6(1835)年
I道祖神 舟型双体像 安永6(1777)年(柳川1140路傍)
 
posted by まほら秦野 at 15:42| 大山道を歩く コース編 上地区

大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く

主催・東公民館  協力・まほら秦野みちしるべの会
古道・大山道を歩く「路傍の神仏を訪ねて」  
 
第1回 東地区寺山の大山道蓑毛通り・坂本通りを歩く   2014/4/3
 
東公民館 ・オリエンテーション「道祖神の形体」
↓ (マタド道)
波多野城址
(蓑毛通り)

双体道祖神    (二ツ沢庭・竹ノ内庭)            ・寺山711
 「奉造立道祖神」 宝暦11(1761)年

道祖神(文字碑)  双体道祖神    (久保庭)         ・寺山667
地神塔 市内最古で安永10(1781)年               

才戸石碑群(馬返し つたや)                  ・蓑毛141
・大山道道標 不動明王像を戴く市内最古の道標で享保20(1735)年
「右ハふし 左ハおた原」と記されているが判読は困難。
・ 道祖神(男女双体像・市内初出) 元文6(1741)年 
・ 地神塔(五角柱型 市内唯一) 
・ 浅間大神塔              

(蓑毛通りから坂本通りへ)  途中に双体道祖神・馬頭観音

双体道祖神    (横畑地区)                ・小蓑毛233
小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察。横畑地区では安産の神でもある。

(坂本通り)

大山道道標 不動明王(祠)(正)大山道 文政3(1820)年   ・小蓑毛235
平成2(1990)年に建てられた祠は平成22(2011)年3月4日に建て替え。

昼食とミニ講座 松下家(古民家)
・講座「寺山の地名」
波多野氏の居住地(波多野城)を示す古語。その他「地獄ゲーリ」「テフ塚・ちょうづか」「タカフチ・タコウチ・高取山」。

(坂本通り)

道祖神(文字碑)(角ケ谷戸庭)                ・寺山1029

武邸の屋敷神 
 庚申塔、巳待塔、稲荷祠、陽石の4体が祀られている。
東中学校の宮永岳彦画伯のレリーフ
昭和60年(1985年)、新校舎の完成記念に、東地区にゆかりのある宮永画伯にレリーフの壁画制作を依頼。1棟東面は「集団における協調精神と慈愛」、正面玄関の横・上には「人生の指針と未来への希望」が主題の大レリーフが飾られている。

道祖神(文字碑「久奈斗大神」)(清水庭)      ・寺山495
清水湧水池跡記念碑                      
東小・中学校の校歌に歌われている湧水池の記念碑。平成16年・2004年に清水自治会が建立。湧水は開発により平成16(2004)に消滅。

道祖神(文字碑)(宝ケ谷戸庭)                 ・寺山485
天社神                      
県道脇に立つ。市内で二番目に古い造立で寛政11(1799)年。台石に「右十日市場」「左坂本」と記されている。市内三番目に古いのは寺山の鹿島神社境内の天社神で享和2(1802)年。市内最古、二番目、三番目のいずれもが寺山(村)地区に立つのは興味深い。

道祖神(文字碑) (宝作庭) 道祖神の表記に注目   ・寺山419
三界萬霊・庚申搭
宝作庭に入口に立つ寺山最古(延宝元年・1673年)の石碑。三界萬霊塔の下部に庚申搭の印である三猿の上半身がわずかに見える。

大山道道標
「(左)ミの毛道(右)さ可本道」と記されている。今の大山・子易は、当時「坂本村」だった。そこに通じたのが「さ可本道」。

西の久保湧水
「風土記稿」によれば、ここは天水場(溜め池)。大正8(1919)年、旱害対策の横穴井戸が村の有志によって掘られた。その記念碑がある。

馬頭観音群とマタドの渡し
金目川橋下流50mほどの川中に、大山道・坂本通りと蓑毛通りを結ぶ川中の道(踏み石)が残っていた。「マタド」に「馬渡戸」「馬渡」の字を与える研究家もいる。地形用語では「又と」で「二つの川か合流するところ」。この地はかつて金目川と中丸川が合流していたところ。
金目川橋の東のたもとに95体の馬頭観音が祀られている。この馬頭観音群の中で最古のものは安政5(1858)年に寺山村の角ケ谷戸西、二ツ澤、清水、竹之内、久保の各庭が合同で奉じた観音菩薩像。建立年代は、明治12、大正が26、昭和が30基。もっとも新しいものは昭和53(1978)年の建立。

庚申塔 (東公民館前) 上原 金山 関口 天保2( 1831)年 ・東田原1525 

東公民館 ・まとめの講座「金目川は加奈比可波」
posted by まほら秦野 at 15:02| 大山道を歩く コース編 東地区

2014年02月11日

会報「まほら秦野みちしるべ」 第4号

会報「まほら秦野みちしるべ」 第4号(研修旅行特集号・2014年1月15日発行)

kaiho.jpg
posted by まほら秦野 at 15:42| 活動の歩み

2014年01月27日

道祖神の里めぐり 倉渕・安曇野・辰野への研修旅行 12月4日〜5日

12月4日〜5日 道祖神の里めぐり 倉渕・安曇野・辰野     研修レポートNO2


 
秦野も「道祖神の宝庫」として               小泉 俊
 今回、訪れたどの地域の人たちも、道祖神をとても大切にしていることを感じました。倉淵地区では、公民館主催「道祖神の里めぐり」というイベントを毎年行い、コース案内、道祖神・史跡の解説を倉渕中学校の生徒が行っています。さらに、倉渕地区の道祖神のスタンプ全67個が作られ、公民館に置かれていたことに感心しました。
 秦野にも、戸川地区の神奈川県最古の双体道祖神、寺山地区の久奈斗大神、西田原地区の猿田彦大神のように珍しい文字碑が見られます。秦野東地区もまた、道祖神の宝庫と思われます。
 今回の研修により、秦野市内の道祖神についても、今後大事にしていかなければいけないと再認識しました。まほら秦野みちしるべの会の今後の活動方針も見出された感じがしました。
 できれば、一杯飲みながら、復習を兼ねて道祖神談義ができたら、より充実した視察研修会になったのかと感じました。


 道祖神保存の決め手は子ども               小山田静夫
 倉渕の道祖神は、暮らしと信仰心が結びついた歴史を物語っているように思えた。翌日訪れた辰野町沢底地区ともどこか似たところがある。
 安曇野・穂高地区は少し感じが違う。道祖神の造立は江戸時代末期と比較的新しいこと、田園の広がる地に家並みの中に点在していることからか、石像はきれい。石材も地産の御影石を使っているのも手伝っていると思う。最も特徴的なのは、子どもたちが彩色を行っている道祖神があること。
 穂高地区と倉渕地区、その内容は異なるものの子どもたちが参加しているところは共通している。子どもの神さまでもある道祖神(活動)を絶やさず、継続、発展させるためには子どもたちの参加が必要であることをあらためて感じた。
 ああ、そうだ。倉渕の坂下や、沢底の急坂など、狭いところを高いプロの技術で難なくバスを運転し、安心して旅を進めてくれた運転士・植田さんにも感謝。実り多い2日間だった。


 「まほらの会」のめざすもの                  横山 信子
 研修で一番印象に残ったのは、実物の道祖神に巡り合えたこと。そして「案内人」倉渕の市川光一さん、安曇野の川崎克之さん、辰野町の有賀茂人さんに出会えたことだった。
 以前この地を訪れた時は、道祖神を「見た」に過ぎなかった。今回は三人の方がいらっしゃったからこそ、短時間で多<の道祖神に会うことができ、より多<のことを学び、知ることもできた。案内人の重要性に改めて気づかされた研修だった。
 過日の東公民館講座で「解説付きだから参加した」という言葉を聞いた。参加者は私たちの案内で何か得るものがあったのだろうか。路傍の石仏や旧道は、ともすれば見過ごされてしまう存在だ。その背景にあるもの、いろいろな人の想いを残し、伝えていかなければ、と思う。
 この研修のためにいろいろ準備してくださった武先生、磯野さん、井口さん、ありがとうございました。
posted by まほら秦野 at 07:50| 活動の歩み

2014年01月17日

道祖神の里めぐり 倉渕・安曇野・辰野への研修旅行・12月4日〜5日

小春日和。道祖神と出会う旅
     倉渕・安曇野・辰野へ初めての研修旅行・12月4日〜5日
                                                    浦田江里子
 
 今年度総会で提案された初の研修旅行が、訪問先の方々の協力を得て実現の運びとなり、12月4日〜5日、マクロバスを8人で貸り切って実施されました、参加者の感想、叙情あふれる武先生の俳句を紹介します。

12月4日(水) 群馬県高崎市倉渕町 
 冬枯れの林を眺めながらバスはなだらかな坂道を登って行く。高崎市街から25キロ山あいにひらけた倉渕地区(旧倉渕村)は、群馬県西部に位置し、利根川の支流、烏川の源流に沿うのどかな集落である。やわらかい陽射しにつつまれて、土蔵や古い瓦屋根、谷間に耕作された田畑に生活の営みが見える。ここは、鎌倉時代から信州街道の村として栄え、馬の背にやぐらをつけて旅した草津道者が行き交った地。民俗文化財や稀少な風習も残り、77ケ所114基の道祖神がたたずむ「道祖神の宝庫」といわれる地域である。
 道祖神の里を解説してくださったのは教育長も務められた市川光一さん。道案内は倉渕公民館の中沢さん。私たちをあたたかく出迎え、一日おつきあいくださった。

12月5日(木)午前 長野県安曇野市穂高町 
 陽光輝く常念岳、連なる白銀の北アルプス、眼前の有明山と山裾に彼方まで広がる田圃風景。穂高川の清流、川沿いのわさび田、雑木林の紅葉、青く大きな空。
 安曇野は道祖神の里として知られる観光地。川崎克之さん(安曇野案内人倶楽部)によると、580もの道祖神が造られたのは、信仰心の厚さ、梓川で採取できた花崗岩、豊かな財力、という要因からという。頻発した道祖神の「嫁入り」(盗難)も、深い信仰心のみならず、若者の力試しや腕力誇示の形でもあり、多くの場合、道祖神の背面に彫られた「帯代十両」を柑々が支払うことで円満解決したらしい。
 切実な願いを託された道祖神というより、おおらかでのびやかである。道祖神のようすも「土地さまざま」と感じた。

12月5日(木)午後 長野県辰野町・沢底地区
 伊那谷の最北部、中央アルプスと南アルプスに囲まれ、天竜川が流れる辰野町。総面積の85パーセントが森林という自然あふれる町の山際に、420人の集落、沢底地区がある。日本最古の道祖神と町花でもある福寿草まつりで知られる静かな山里である。
 沢底入村センターで案内をしていただく有賀茂人さんが待っていてくださった。この日のために作成された日付入りの道祖神マップをいただき感激。そして「日本最古・永正夫2年」の銘を持つ双体道祖神に会いに行く。その神さまは、陽だまりの中でほっこりと山の斜面に立っていた。裾めくりのポーズで500年以上もずっとそこに。
 各集落の鎮守社をまとめて祀っている鎮大神社(しずめだいじんゃ)を訪れるる。本殿の手前に覆屋があり、諏訪社など6の小宮が並んでいる。ご神体が納まっでいる社もあり、なにやら謂れもあるようだ。屋根付きの奉納品納め棚には、色褪せた扇子がいくつも掛けられている。生まれた子どもの名前とハサミの絵が書かれているのは、成長祈願と夜泣き・虫封じ(疳の虫封じ)の祈願という。が、この集落に産声が聞かれなくなって久しいらしい。かつて活気に満ちた時もあったのだろう。今は木立に埋もれ深遠な気配漂うパワースポットは、陽光の似合うこの集落で、ゾクッするほど印象的だったことを記しておきたい。一時間ほどの短い滞在だったが、ここでも忘れがたい出会いに感銘をうけた沢底訪問だった。


道 祖 神                武 勝美
        
 肩組みも握手・抱擁・献酬も「生の全う」願う姿ぞ
                      
倉 渕
  小春日やよう来なさったと夫婦神
  山陰に笑む道祖神冬温し
  里小春肩組握手道祖神
  冬日向寛文二年の双体仏
  道祖神の嫁入り話暖炉燃ゆ
  石神の微笑み二つ初写真(14年の年賀状に)

安曇野
  今朝の冬まとひ常念岳屹立す
  冬霧に沈む朝(あした)の道祖神
  雪嶺を負ふて彩色道祖神       
  冬耕の婦(つま)路傍神に見守られ
  冬日向頬を緩めて夫婦神
  この顔は誰彼に似てると笑い合い歩幅大きく安曇野を歩く

辰 野
  冬晴れや裾まくりとふ道祖神
  木枯らしや一村望む夫婦神
  風筋の木の葉あつめて路傍神
  裾まくり道祖神落ち葉のコンチェルト      
  冬到来風のごつんと石神に
  天明の飢饉の中で祀られし双体像はひときわ小さし      

ビバ!「みちしるべの会」
語りあう人居る幸ぞ温め酒

 
「まほら」を旅する
                                                         野村 幸雄     
                                         
 倉渕公民館の協力と市川さんの説明は本当に心に染みたと同時に、郷土を愛する、歴史を愛する気持ちに思える。これが中学生の有志が道祖神の説明をするという行事につながったと思う。武先生の事前の調査もあり、今回倉渕に来た熱意も伝わり、本当によかった。秦野では見られないような道祖神もあり、また「孝心塔」と書かれた庚申塔も見つけたりして、有意義な倉渕であった。
 穂高では、案内役の川崎さんが道祖神以外のことも気さくに答えてくださり、地域についても理解できた。急遽、トイレ休憩をお願いした吉祥山東光寺の住職の奥さん(90歳前後)に話を聞けたのもよかった。
 廃仏きしやくで廃寺になったが一代で寺を建て直したとか、山門の像のモデルが横綱北の湖関であるとか。また、山門のところに「脚下照顧」とあり、反省させられる一面もあった。
 道祖神は上手い下手はあるが彩色してあり、これは小学生によるもの。近くの地域でも、色のない道祖神もあり、違いが浮き彫りになっていて考えさせられた。
 辰野ではいきなり「日本最古」の道祖神を見学。たくさんの道祖神が並べてあるのは道路拡張などでやむなくまとめたのが現実で、時代に即した対応であろう。各地域の神社を集めて大宮、小宮として祀ってあるのも時代を感じさせられた。
 今回の旅に尽力された方々に心からお礼申し上げます。


個性いろいろ「わが町」の道祖神                                   綾部 英雄

 初めて秦野市外の道祖神を訪れて感じたことは、各地区マップを作成し、わが町はこんなにいろいろな道祖神がある、とPRして町おこしに活用していることだった。
 倉渕では、かなり悩ましい姿の像や、座った形、御高祖頭巾の像、娘さんの国体出場記念のかわいらしい少女像、秦野では見たことのない焼け焦げた道祖神など、バラエティに富んでいて、しかも素朴感いっぱいで楽しい限りであった。いかにも道祖神の似合う町である。
 安曇野の像は、石が硬い材質のためか彫り跡もはっきりして色鮮やかで大柄である。
二十三夜塔が脇にあるのも目につく。町並みを見ると、屋敷も広く、きれいに手入れされた庭と蔵が似合う。
 辰野町沢底地区の日本最古の道祖神は、500年以上たつとは思えないほど彫りもしっかり残っていた。最近まで2月8日に「メッチリ ハナッチリ」と言いながら餅を道祖神に塗りつける厄除け行事が行われていたというが、見たかったものである。
 無造作に置かれているが、盗難にもあわない。盗めばバチがあたるから誰も盗まないとおおらかである。二猿という珍しい庚申塔もあった。地域による違いはいろいろあるものだ。
 今回の研修旅行は皆の日頃の行い(道祖神・石碑の調査)のためか、天気にも恵まれ、アルプスの雪景色、澄んだ川、どれも素晴らしかった。各地区でお世話になった方々に、今度は秦野に来ていただいて、秦野の道祖神を案内したいものである。
 「上州名物かかあ天下とからっ風」の由来が、人が来たときに「かかあ出んか」と言ったから、だとか。なるほど。面白い話である。


ともかく嬉しい 道祖神との出会い                                    井口 健二

 研修会は、知る人ぞ知る倉渕町のおおらかで人間味あふれる道祖神との出会いで始まった。それは緊張をいっぺんに和らげてくれた。移動中のバスの中でも、夜の宴会でもその話題で盛り上がった。
 浅間温泉からの2日目、朝食を7時に済ませ、安曇野に向かう。急に湧いた深い朝もやの中を穂高駅からバスで西へ10分。歩き出すと真っ白な雪を被った北アルプスが静かに立っている。広い畑の向こうまでさえぎるものは何もない。有明富士が透き通った青空の中に悠然と聳えていた。ここは、別天地、仙人の住む桃源郷だ。ともかく嬉しくなった。みんなの笑顔がうれしい。
 1時間ほど道祖神を見て回った。いずれも大きい。石は白っぽくて硬い花崗岩のようだ。いつの頃からか、子どもたちの手によって自由に彩色されている。朝の連続ドラマで見たあれ以上だ。大人の背丈よりも大きいものもある。恵比寿・大黒と並んでいるものもあった。大概はみな立派な石の台座を新調してもらい、一段と高く持ち上げられている。そのためか、誇らしげに立っている。
 地元の方は視線が合えば必ず頭を下げて挨拶をしてくださった。私も「ありがとうございます」と頭を下げた。
posted by まほら秦野 at 09:06| 活動の歩み

2013年12月25日

「道祖神と湧水めぐり」のご案内

まほらの会よりご案内

秦野市南地区
  道祖神と湧水めぐり 
(ウオークとミニ講座)
            主催・秦野市立南公民館  協力・まほら秦野みちしるべの会

  日 時  平成26年1月8日(水)9時30分〜15時
         ミニ講座「道祖神ワンダーワールド」 
         ・道祖神の形体 ・紙芝居上演「目一つ小僧」 
                    講 師  武 勝美さん
          問合せは南公民館へ(0463-81-3001)
posted by まほら秦野 at 08:07| 活動の歩み

2013年12月23日

まほら秦野みちしるべの会 研修会

2013年12月4・5日 日本最古の道祖神を訪ねる  
 
           群馬県高崎市倉渕地区
           長野県安曇野市穂高地区
           長野県辰野町沢底地区

    学習資料  道祖神像に見る地域性・特徴
1 秦野(西相模)  僧形合掌直立像(1669)  男女双体直立像(祝言、肩組みは稀)
          双体像 180 文字碑140

2 倉 渕(群馬)  男女双体像(祝言、肩組み握手が多い 座り雛 抱擁像)
僧形合掌直立像(1625年) 

3 安曇野(長野)  男女双体像(祝言、肩組み握手 彩色が特徴 冠位束帯 菊紋) 1700年以降が多い

4 辰 野(長野)   男女双体像(1505年)  (祝言、肩組み握手)  石祠
  
5 伊 豆 (小田原・真鶴・湯河原・熱海・三島・東伊豆地方)
単体で地蔵像 女神坐像

6 富士宮(静岡)  単体僧形立像 双体は祝言、肩組み握手(坐像で手の大きいものがある)

7 山 梨  丸石 石棒 石祠(1660年)  男女双体像(分布は県境地帯に限られている)

8 柏 崎(新潟)  男女双体像(祝言、肩組み握手) 脚気、耳病、眼病を直してくれる神でもある。木像、藁や紙製の道祖神も(いずれも燃やされる)。男根・女陰を大胆に表現しいている。

まとめ 
 ・どの地の男女双体像も 「慎ましやか」、あるいは「伸び伸びと大らかに」愛情表現をしている。
 ・道祖神は精一杯生きている村人(地域、共同体)を力強く支えている神。仏教、道教、儒教の伝播を乗り越え生まれた日本民族の代表的な民俗信仰。
posted by まほら秦野 at 09:27| 活動の歩み