2012年03月04日

富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる

2012年2月8日

富士講の聖地 人穴浅間神社を訪ねる
                                       武 勝美

 東名高速道の富士インターを降り、西富士道路 → 国道139号 → 県道71号をおよそ25km、40分ほど走ったところに人穴浅間神社(富士宮市人穴208)がある。祭神は木花開耶媛命(コノハナノサクヤビメノミコト)、そして藤原角行と社頭の案内板に記されていた。木花開耶媛命は富士山の祭神、それと伍して祀られているのが藤原角行。

 藤原角行とは、戦国時代から江戸時代初期(16世紀後半から17世紀前半)に富士山麓の人穴で修行した角行藤仏(天文10・1541年〜正保3・1646年 長谷川角行・藤原武邦とも称した)という行者。江戸時代「江戸八百八町、八百八講」といわれたほど隆盛を極めた富士講は角行によって創唱された。
角行は人穴で千日間立ち行の末に悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めた。富士山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき人穴で入寂したと伝えられている。
 人穴神社に着いたのは午後4時ごろ。まだ成木とはいえない杉林の中に神社はあった。
参道で行き会ったのは地元のテレビのクルー5人だけ。遺跡復旧のレポートのためか、それとも心霊スポットの取材なのか。神社の近くに民家はあまり見えない。鳥居の前に立つ今風の建築様式の家から犬が私たちを警戒?歓迎?し、吠え続けていた。

 人穴浅間神社の境内右手に溶岩洞穴「人穴」がある。記録によれば「主洞は高さ1.5m、幅3m、奥行き約90m。洞内には江戸時代に作られたとされる石仏が安置されている」とある。最奥からさらに細い穴が伸びており、神奈川県の江ノ島に通じるとの伝説もある。
 江戸時代には富士信仰の修行の場ともなっていた聖地で、富士講信者は富士登拝をすませると人穴に参詣にやって来て、宿泊したとされる。


境内に林立する富士講の碑塔

 境内の左手には富士講の記念碑・供養塔などの碑塔が林立している。その数約230基。造立者には江戸、安房、上総、下総などの住人もいて往時の富士講の隆盛のしのぶことができる。その碑塔が立つ場所は縄が張り巡らしてあり「立ち入り禁止」となっていた。2011年3月15日、静岡県東部を震源とする震度6強の地震が、碑や塔を崩したり傾けたりしたからだ。人穴も覗くことはできなかった。富士宮市はこの人穴富士講遺跡の復元に入っているらしく、参道の入り口近くに教育委員会の事務所が設けられていたが、人影はなかった。


富士を拝み、富士山霊に帰依する

 秦野市内に現存する富士講碑、浅間大神塔などは20基を超えている。秦野を通る富士道がたどり着くところがここ人穴。「富士を拝み、富士山霊に帰依し心願を唱え、報恩感謝する」という分かり易い教えの富士講。白装束に金剛杖で六根(眼・耳・鼻・舌・身・意根)清浄を唱えながらひたすら富士を目指した人々。それは一種の新興宗教のブームのようなものだったのかもしれない。しかし、ひたすら修行を重ねた人々の心は清らかだった。
 人穴地区の氏神だった人穴浅間神社は、昭和17年、国の命令で地区民とともに強制移転させられ、昭和29年ようやくこの地に戻ってくることができた。
時の流れ、生活や文化の進歩、変転がもたらしたものとはいえ、ここに心のよりどころを求めた人たちの今の姿・塔碑は哀しいものにしか見えない。だが、それはまた百数十年を超えた今も、信仰に生きる人たちの確かな心・姿を私に伝えてくれた。夕陽に染まり始めた富士を帰り際に見ることが出来た。


資料にみる「人穴」

『吾妻鏡』
 源頼朝が富士の巻狩りの際、仁田四郎に人穴探索の探索を命じられた。だが人穴で従者4人が突然死し、やっとの思いででてきたという記述がある。
『御伽草子』
 『富士人穴草子』では「人穴は地獄である」と綴られた。人穴が恐怖の対象として見られていたことが分かる。
 これらが今「心霊スポット」として知られていることにつながっているのではないか。もちろん、現在の人穴神社の風景が生み出す雰囲気も心霊スポット的であるが。
posted by まほら秦野 at 13:58| 大山道を歩く エッセイ編

2011年11月02日

「大山道を歩く」 イラストマップ展

◎まほら秦野みちしるべの会

 「まほら秦野みちしるべ」イラストマップ展(市内全七地区11図)
  期 日  2013年1月13日(日)〜31日(木)
  会 場  秦野市立本町公民館ロビー
          13(日)・27日(日)の午後1時30分からミニ講座  
      
posted by まほら秦野 at 16:33| 活動の歩み

2011年08月31日

道祖神の里めぐり 群馬・高崎市倉渕地区(旧倉渕村)

 ああ、おおらかな神様たちよ

 『奥の細道』の序章に「道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより」という一節がある。
 この夏、宿願だった群馬・高崎市の倉渕地区(旧倉渕村)と長野・安曇野市穂高地区(旧穂高町)の道祖神に会い出かけた。

8月16日
 午前9時少し前、倉渕地区の入口で出会ったのが抱擁する道祖神。高崎市教育委員会の解説書には「特異な抱擁像」とある。像の側に立つ旧倉渕村教育委員会の案内板には「浮世絵を思わせるような夫婦和合像」と記されていた。道祖神は複合信仰の神で、塞の神、岐の神、結縁の神、子宝の神、豊作の神など万能の神。この抱擁像の他にも、女性の胸元に手を滑らせているもの、下半身に手を伸ばしているものなど、おおらかな神様がいくつも見られるのが倉渕の双体道祖神の特徴の一つ。秦野地方では全く見られない道祖神像である。            
 水沼坂下の握手像はガイドブックなどにも載る特徴のある道祖神。今回ぜひ会いたいと思っていた道祖神さん。お盆で倉渕に里帰りしている女性に出会ったので、像のありかを尋ねたが自信のある答えはもらえなかった。集落からの道が大きく回りこんでいる山道の陰に、頬を寄せ合っている道祖神さんがいらっしゃった。仕草・表情はまさに夫婦円満の象徴。明るい開けた場所に立たせたい。
 長井地区の「百庚申」と呼ばれているところには6基の道祖神があると資料に紹介されている。林道の脇の階段を登ると、生い茂る夏草の中に庚申塔が林立している。文字通り「百」はありそうだった。その庚申塔群の奥に道祖神が祀られている。この地に立つ道祖神と庚申塔は道路改修の際、ここに集められたらしい。
 長井を通る信州街道は草津温泉に続くので、草津街道とも言われ多くの旅人が行き来した。6基の双体道祖神の中で「御高祖頭巾」の像は「優雅て逸品」と記録されているが、時を経たことと修復とでその価値をうかがうことが出来なかった。倉渕にしかない「元禄びな」と呼ばれる坐像の双体道祖神もある。冬の陽だまりの中で6体に再会したいと思った。
 「優雅」な道祖神といえば下諏訪神社境内に立つ酒器像は「天下逸品」と地元でも評されている。天明8年・1788年の造立だから220年を経ているのだが、その控え目な上品な表情は時の流れと共に美しさを増している。
 倉渕地区は道祖神の宝庫といわれている。77カ所、114基という数はもちろん、造形的に見ても優れたものが多い。こんな素朴で優雅な倉渕の道祖神さんが平成3年盗難に遭い、まだ倉渕に戻って来ていない。その話を聞かされたあと、迷い込んだ小さな集落の入口で平成6年に造立された双体像に出会った。その穏やかな表情から、今も道祖神と共に生活しているこの地区の人々の心の豊かさを感じた。

   http://echo-take.sakura.ne.jp/の「ギャラリー」のページに
  『道祖神の里めぐり』群馬・倉渕地区と長野・穂高地区の道祖神の写真を掲載しています。
  お訪ねください。
posted by まほら秦野 at 14:55| 大山道を歩く エッセイ編

2011年06月27日

難読地名・名古木のルーツを示す庚申塔

地名・名古木のルーツを示す庚申塔(名古木247番地)
                                      武 勝美

 千昌夫の知られている歌の一つに「味噌汁の詩」がある。「へぇーそおか おまえさんも東北の生まれか」というセリフが入る歌である。
 2009年1月29日、JAはだの主催の「千昌夫ショー」でのこと。その日も千さんは「味噌汁の詩」を歌った。そしてセリフの「東北」という部分を『ナガヌキ』と入れ替えた。会場がドッと沸いた。入れ替えられた『ナガヌキ』は秦野市の東地区の一地名で、難解な地名の一つとしてネット上でも取り上げられている。『ナガヌキ』を文字にすると「名古木」。「名古木」を『ナガヌキ』とは読めない!
 『新編相模國風土記稿』は「名古木村」を「奈古乃幾牟良」と振り仮名を付けている。風土記稿が編まれたのは天保12(1841)年だから、その時代「名古木」は「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ばれていたことになる。同書に「古は并椚村とも書す・玉傳寺、慶安2(1649)年の御朱印及鐘銘等に見ゆ、其唱は同じ」とある。
 今からおおよそ320年前の貞享5(1688)年、名古木247番地の路傍に庚申塔が造立された。その塔の左面に造立者名と地名が刻まれている。地名は相州大住郡并椚村とある。
 并椚村の『并』は『幵(パソコンではこの文字が対応)『並ぶ』に近い意味を持つ。漢和辞典(新明解・第一刷)では『并』は『並』と同じ部首にある。だから『并』=『並・ナ』と読んだ。『椚・クヌギ』は古くは「クノキ」とも読まれ(呼ばれ)ていた。碑文の「并椚村」は「ナクノキムラ」と読むことができる。
 『大山不動霊験記・寛政4年』は寛永時代(1624年)から寛政4年(1792年)までの大山不動の霊験あらたかな話が131話収められている。その中の第93話は『相州長軒村』市五郎の話である。この書の研究者は長軒村を名古木村としている。この書の成立年からすれば、寛政4年(1792年)には名古木は「長軒(ナガノキ)」と呼ばれていたと推測できる。
 
 今、読み方が難しいと言われている「名古木」は「并椚・ナクノキ」→「長軒・ナガノキ」→「奈古乃幾・ナコノキ」と変化し「名古木・ナガヌキ」に至った。

地名『并椚』はどういう意味を持つのか
 古の人たちもまた、われわれと同じように家と外を区別するために門を作った。そして門のことを「区の木」と呼んだ。門に使われたのは里山に自生している木だった。その「区の木」として使われた木がクヌギと呼ばれるようになった。「椚」は「区の木」当て字・国字である。
 『并』は『竝=並』に近い意味を持つ。(『并』は縦並びを意味する文字)。地名『并椚』は、「区の木」が並んでいる、奥の方に家が並んで建っている様を表している。
 「名古木」を「奈古乃幾・ナコノキ」と呼ぶとき、「ナコ」は「和やか・穏やか」。「キ」は場所を表す語。あわせると「ナコノキ」はなだらかな地形の場所と説明できる。

「并椚村」と刻み込んでいた庚申塔が、3月11日の東北地方太平洋沖地震で倒壊。二つに折れ、地名の部分は剥落し粉々になってしまった。4月10日、地元の人たちによって塔は修復された。

    

                  
posted by まほら秦野 at 14:35| 大山道を歩く エッセイ編

2011年05月28日

大山道・蓑毛通と伊勢原道が交差する落合地区

  芝居小屋が建った稲荷神社のお祭り 

                                武 勝美

 2011年3月13日「まほら秦野みちしるべの会」は、地元の矢野恒雄さんと榎本淳一さんの案内で落合地区を歩く。総勢15名。今回は主に水源地を見ることにした。落合地区は全体に地下水が深くて縦掘り井戸はあまり活用できなかったようだ。
最初に訪れたのは地蔵山光明院の境内の横穴井戸。竹林の中のこの井戸は西落合に住む人たちの飲料水用だった。子供の頃この湧水が流れ出る沢でモズクガニを獲ったと矢野さんは話す。光明院は田山花袋の小説「おばあさんのイメージ」のモデルである堀越トミさん(この寺の住職の奥さんに当たる)の住んでいた寺。昭和37年にトミ女地蔵尊が建立された。「この辺にお地蔵さんがあったはず」と矢野さん。だがきょうは発見できなかった。
 八幡神社下の横掘り井戸は明治33年に掘られている。境内の下にまで掘り進められているようだ。コンクリートで作られた貯水池からこぼれ出る水が水量の豊かさを表していた。今も生活用水として使われていて、池に引いている家もあるとのこと。横に水神の祠があり4名の名が見える。
 延沢川を遡ると東落合の水道の水源地があった。水源と貯水槽は金網に囲まれ近づけない。水神が祀られていて、傍らに「水源ノ由来」の石碑がある。カメラに収めた画像を拡大して読んだ。要約すると「地区に井戸はあったが渇水期になると井戸は用を足さない。それで田代六太郎が十数名に諮り35円を拠出し、35間の横掘り井戸を掘った。一日の湧水は80屯。大正6年のことである。昭和52年には集落の居住者が70余戸にまで増えたが、この水源で生活水をまかなうことができた」。
 落合地区には独立行政法人の神奈川病院がある。今も地元の人たち(私も、そうだ)はその病院を「療養所」と言っている。昭和14年に「将兵療養所」として開所した。その病院の取り付け道路の脇に立つ碑に矢野さんが案内してくれた。茂みの中に倒れている碑は太い蔓に押さえこまれている。その存在はすっかり忘れられているさま。会員の二人ががんばってその石碑を起こした。碑文は「慰霊碑」。裏面には「建立神奈川県 昭和14年10月」とある。矢野さんによれば、70年くらい前「この道の脇にあった横穴に人骨がたくさんあったのを見ている」とのこと。「その横穴のあった場所はこの辺り」と説明してくれた。風土記稿には「洞穴 西方にあり 亘三尺許、入事甚深し、横に古弁天社ありしが、今は廃す」とある。慰霊碑は道を開くにあたって、その横穴を埋めたために建てられたものだろう。
 大山道を指し示す道標が落合278番地にある。石橋供養塔で、下部は地中、コンクリートで固められている。「右 伊勢□」「左 □」としか読めない。この塔の裏に榎本淳一さんのお宅がある。榎本家の屋敷内に、かつて稲荷神社(今は八幡神社境内に遷宮されている)が祀られていた。榎本さんが所蔵している古文書を見せてくれた。
 明治30年に神奈川県知事(中郡長)に申請した、榎本家他3軒で護持している稲荷神社の祭礼に芝居を興行することの申請書である。「演じ物は“勧善懲悪”もので、“風紀紊乱”ものはない。入場料無料なので税金の免除を」という内容。芝居小屋の大きさも書かれている。「間口4間、奥行き3間半」。大山道の隆盛を垣間見た気がした。
風土記稿には、落合村内に「小田原道幅九尺村の中程在 伊勢原道幅六尺東界に在」と記されている。この小田原道とは「大山道・蓑毛道」である。なお同書に「瀧 西に在 三の白瀧と呼 高さ三丈余 幅一丈許」とも記されている。     
posted by まほら秦野 at 09:30| 大山道を歩く コース編 東地区

2011年05月01日

路傍の神仏を訪ねて

秦野市立東公民館主催                        2011/4/4
「大山道を歩く」 路傍の神仏を訪ねて(第1回) 参加者30名
             講師 まほら秦野みちしるべの会 横山信子・小泉俊・武勝美 

オリエンテーション「先人たちの深い思いを秘め路傍に佇む神仏」
 路傍の神仏は庶民の心のよりどころ ・全国でもっとも多いのが庚申塔
1 秦野市内の石仏・石神(平成13年調査)
・地区別所在数  東地区560 西380 南380 本町370 北310 大根 210 上210 鶴巻100 
・石仏石神の種類
(1)道祖神碑・凡そ320(双体180) (2) 庚申塔・凡そ130 ( 3) 地神塔・凡そ100
(その他)富士講碑・凡そ30 馬頭観音碑・凡そ420(牛頭観音2)
2 富士山と大山
・コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売) ※さくらとコノハナノサクヤビメ
・オオヤマツミノカミ(大山祇神、大山積神、大山津見神)

―― 訪ねた順路 ――
1 道祖神(大山道道標を兼ねる) 文化三年 いせ原口 (左)大山道
           1806(文化3)年建立 ・東田原1533(東公民館近く)
2 水波能賣命(ミヅハノメノカミ) 2基  
           1928((昭和3)年 1940(昭和15)年 ・東田原1567
   ※馬返し つたや ・蓑毛141
3 道祖神(男女双体像・市内初出)    1741(元文6)年  ・蓑毛141
        ・市内最古の道祖神は戸川701に立つ双体像で1669(寛文9)年
        ・最新は名古木道場に立つ文字碑 2010(平成21)年建立
4 地神塔(五角柱型 市内唯一)               ・蓑毛141
       次の5神の名が見える
       ・天照大神(アマテラスオオカミ)
       ・□□(具)命、(武注:大己貴命・オオナムチノミコトのことではないか) 
       ・少彦名命(スクナビコナノミコト)
       ・埴安姫命(ハニヤスヒメノミコト)
       ・倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)
  ここには別に「天社神」碑もある。天社神も地神で秦野地方に多く見られる。地神の祭りは「社日」に行なわれる。※社日 春分・秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日。生まれた土地の産土神(うぶすながみ)に参拝する日。春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収穫に感謝する。今年は3月24日、9月20日
5 浅間大神碑                   ・蓑毛141 
6 大山道道標・不動明王(市内最古) (正) 右はふし  左はおた原
  1735(享保20)年  ・蓑毛141
7 道祖神(僧形双体像)              ・小蓑毛233
 小川直之氏は「この双体像は、像容(僧形の合掌像)からすれば寛文(1661年)から元禄(1703年)時代のもの」と推察している。横畑地区では安産の道祖神としてあがめられてきた。 
8 大山道道標・不動明王(祠)(正)大山道 1820(文政3)年 ・小蓑毛235
  1990(平成2)年に建てられた祠の建て替えが2011(平成22)年3月4日行なわれた。
          昼    食
※花嫁も医者も通った坂本道(チヨーヅカのお婆と地名「地獄ケ入」「舞ケ久保」)
9 屋敷神(庚申塔 巳待塔 稲荷社 金精塔)          武敏明家
10道祖神(久奈斗大神)     1883(明治16)年   ・寺山495
11記念碑(清水湧水池跡)   2004(平成16)年   ・寺山495
12地神塔(天社神 道標を兼ねる)  左坂本 右十日市場 
  1799(寛政11)年   ・寺山485
13大山道道標 (正) さ可本  ミの毛 道     ・寺山420
14馬頭観音群    ・寺山46
15庚申塔 上原 金山 関口    1831(天保2)年   ・東田原1525(東公民館前)

まとめ  庚申塔(今年の庚申の日 1/5 3/6 5/5 7/4 9/2 11/1 12/31)
路傍に立つ石仏に、青面金剛像、三猿、鶏などが見られたらそれは庚申塔。文字で「庚申」とあるのもある。西田原・池端に立つ「猿田彦大神」と刻まれている石碑も庚申塔。
 年に6回巡ってくる庚申の夜を、3年18回パーフェクトに勤めると三尸の虫の動きは弱まるともいわれる。そのパーフェクトを記念してその講中は集落(庭)の入口近くの路傍の石碑を建立する。長寿・健康を願うだけでなく、厄難が集落に入り込むことを封じるため。だから庚申塔はわが国でもっとも数が多い石仏なのだ。
posted by まほら秦野 at 09:15| 大山道を歩く コース編 東地区

2011年03月26日

富士道を歩く 金井島(開成町)・松田・千村・曲松・田原・蓑毛・寺山・小蓑毛・坂本(大山)

瀬戸屋敷・あしがり学校特別コース                         2011/3/25
             
「歴史を刻むふるさとの道・大山道」大山道と里人の暮らし

1 なぜ大山なのか(大山信仰)  ※大日堂境内の道標(従是不動石尊道)
(1)雨乞い(雨降り・阿夫利山、農耕の神) 
(2)漁業・航海の神 
(3)初山参り(成人お礼) 
(4)死霊鎮魂(茶湯寺) 
(5)招福除災(太刀納め) 
・大山の位置 江戸から18里(1里は約3.9km) 三泊ほどの距離。宝暦年間には年間20万人。

2 富士山と大山
 コノハナノサクヤビメ(木花之佐久夜毘売)
 オオヤマツミノカミ(大山祇神、大山積神、大山津見神)
 
3 富士下向と富士江掛越
「村山坊の宿帳」による1831年の夏山(6/27〜7/17) 宿泊者は857人。宿泊した講中で「富士下向」7組、「富士江掛越」2組。

〇 一般的な「富士下向」コース
 江戸(甲州街道) → 大月→ 谷村→ 富士吉田→ 登頂→ 須走→ 御殿場→ 竹ノ下→ 矢倉沢→ 関本→ 大山

〇 大山詣での一例
コース
自宅→ 甲斐一ノ宮→ 富士山→ 須走→ 足柄峠→ 道了尊→ 松田→ 蓑毛→ 大山→ 子易→ 田村→ 藤沢→ 江ノ島→ 鎌倉→ 鶴間→ 八王子→ 小仏→ 上野原→ 大月→ 勝沼→ 木之宮→ 帰宅 (全行程おおよそ308kmを10日間。一日の歩行距離約30.8km)
※一行六人のうち、松田宿から駕龍二人、馬二人。田原で一人だけ馬で蓑毛に向かう。永楽屋で昼食をとり一行は空身で大山に向かった。荷物は押し切り印の切手と引き換えに人足によって子易に送られている。この人足は、道者が雇った者か茶屋の雇った者かはっきりしないが、蓑毛と子易の旅館が連携して道者への便宜を図っていたようだ。大山では大津屋に泊まる。(『富士道中雑記 附江ノ島・鎌倉』・神奈川県立金沢文庫所蔵から) ・内容などから推定すると天保九年(1838)ごろ。

4 大山道と里人の暮らし
(1)富士道   ※波多野庄の入口の道標 沓掛の不動明王 
八幡清水の横堀井戸 道切講 筒粥神事 
(2) 蓑毛通  蓑毛の地名「才戸」 
(3) 坂本通  寺山の地名「チョウ塚」「地獄ケ入」「横畑の大山道の道標」

5 おわりに
  活動の原動力は「よそ者 若者 ばか者」  
  ふるさとを知り ふるさとを愛し ふるさとを育てる

posted by まほら秦野 at 08:52| 大山道を歩く コース編

2011年01月27日

「台町の今昔」に学んだこと

「台町の今昔」に学んだこと 
   ふるさとを愛し 育て 次世代にしっかり手渡そう
                                   浦田江里子

 台町自治会・長寿会共催で行われた「皆で語ろう台町の今昔」に参加した。10年前に行われた語り部の会に続く第二弾とのことである。「昔から住み続けている人も少なくなり、年を重ね、台町の良さを知るにつれ、心寂しくなっていく。10年前、長寿会の方に語っていただいたビデオ映像は今になってとても貴重と感じる。知らなかったことを知って、後世に受け継いでいこう」と、主催の自治会長さんのあいさつがあった。最高齢94歳の清水さんの自伝的語りも味わい深く、地域の歴史を刻んできた人々の思い出語りに耳を傾ける穏やかなひとときだった。
 帰宅後、自治会長さんが丹精こめて作ったと思われる資料をじっくりと見た。現在の地図上にかつての賑わいの跡が記されている。様々な場面を切り取った写真には、私の知る秦野とは違う街が見える。三角屋根の駅舎、大山遠望の鉄道、入船橋の夕涼み、なかなか風情ある景色ではないか。

軽便鉄道台町駅
 交通の歴史を垣間見る馬車小屋や人力車営業所跡も地図には記載されている。大正2年、馬車に替わり誕生した軽便鉄道は、葉たばこ、落花生、秦野木綿などを運ぶ秦野の産業の担い手であった。ひっくり返れば大人が寄り集まって車両を起こし、坂にかかれば乗客が降りて後押しする。ガキ大将の指揮のもと、置石して汽車をとめては車掌に追いかけられるやんちゃもいたし、沿線で夏は氷、冬は蕎麦を売る人もいた。「遊んだ記憶はあるが乗った記憶がない」と参加された方々。それなのに、軽便鉄道にまつわる話は尽きず、一様に笑顔がこぼれる。町をぬって走る小さな汽車が、暮らしの中で生き生きと活躍しているようすが目に浮かぶ。

秦野座跡
 今で言うなら文化会館! 歌舞伎役者が往来し幟はためく地域の拠点。芝居がある日は商店街も遅い店じまいで一層活気づいたという。この堂々たる外観で、秦野座は人々のエネルギーを生み、発散させてきたに違いない。しかし、戦後はアパートに、昭和60年には解体された。時代の流れに抗うことはできなかった。

「青物市場・魚市場跡」市場は生活の基盤。馬車・牛車が行き交う街道では、馬糞、牛糞を踏まずに歩くことにずいぶんと神経を使ったというのは実話である。
 金目川から分かれる今はない「井守川」。川を利用して作られた50mプールがあったという。底はコンクリートで固めてあるものの、川であることには変わりない。魚と一緒に泳ぎ、水の冷たさは半端でない。10年間のプールの歴史には、ロサンゼルス五輪出場選手も泳いだという華やかなエピソードがある。
 私が思わず見入ったのは、昭和初期の曽屋神社祭礼の写真。台町の山車をバックに90人ほどの法被姿の子どもたちが写っている。紅白に飾られた柱、幕、しめ飾り、ちょうちん、晴れ着の女の子、うちわ片手の男衆。一年一度の大祭に、緊張感と気合が見える。全盛期には近隣の町村から50万人が参集したとは本当だろうか。この日ばかりは軽便鉄道も大増発して満員御礼であったらしい。南地区出身の友人の話が頭をよぎる。曽屋神社のお祭の日は一族そろって神輿の宮入りに立ち会うのが子どもの頃から恒例で、結婚した今も、これは何よりも優先するのだと。熱い思いを引き継ぐ人も僅かながらいるようだ。
 年齢とともに強まる思い。それは、郷愁、寂寥、焦りさえ覚えるほどの、自分のルーツ、環境への愛着かもしれない。住み続けている場所ならなおさらだろう。会の最後に紹介された梶山家(立花屋半兵衛茶舗)系図(30年前、小学生だった息子さんが調べたという)は、一つの家族の歴史を辿るものだが、家族の歴史は同時に地域の歴史を伝え支えるもの、と気付かされた。
 私を育ててくれた風景を懐かしく感じ、受け継いできたものを大切に思い、これからもずっと、これまでと同じように我が子に語り、示していくことを大事にしなければならないな、と会の趣旨に賛同しながら、学び、再認識したのである。 (記・2011年1月23日)

posted by まほら秦野 at 09:43| 大山道を歩く コース編 本町地区

2011年01月10日

大山街道と阿弥陀仏越え(鶴巻地区)

大山街道と阿弥陀仏越え
                                 岩田 安雄
 昔、東海道・大磯の宿から大山へ通ずる大山街道という道があり、大山参りの大勢の人々が通ったと言う。現在の県道「大磯、鶴巻、上粕屋線」と似ている。このほぼ同じ経路を真田から鶴巻へ入り、下落幡橋を渡り石武さんのそばに善晶寺がある。その角を左折、落幡神社の後ろを抜け、大欅の手前T字路を左折、鶴巻団地入り口の右を通り抜けるとスーパークボタの横へ出る。信号のある交差点を山側へ渡り、サンライフ秦野の前を直進、鶴巻小学校と中学校の間を抜け、東名の上の窪橋を渡り、石座神社の後ろへ出る。この道が山街道である。さらに山に向かって左折し、進むと蛇久保川に出る。これを右折、川に沿ってわずか7、80メートル行くと段々の田んぼに出る。これを山に向かって登ると阿弥陀仏峠にでる。この峠を越えると、現在の伊勢原市善波(ぜんば)である。
 この善波には善波太郎重氏という侍がおり、弓の名手であり、奥方が大層美しい方であったという。その末裔の故か、私がまだ若く幼い頃、年寄りの人に問いた話であるが、善波は美男美女が多く、特に女は「善波女」と言われるぐらい評判だったので、近在(水田地帯)の男衆が競って山越えして押し掛けたそうである。今でも善波生まれのご婦人が鶴巻(落幡)真田・金目(かなめ)地区には多い。ちなみに私の母と兄嫁は善波女である。
 そのように阿弥陀仏峠を越え多くのロマンスが生まれ実ったという。いまは阿弥陀仏峠はハイキングコースに生まれ変わり、野仏の道といわれ多くのハイカーに親しまれている。
posted by まほら秦野 at 15:22| 大山道を歩く コース編 大根地区

2011年01月08日

平沢・今泉地区を歩く

 平沢・今泉地区の石仏めぐり             2010年10月31日
                                                 綾部英雄

 秦野駅から土橋経由渋沢行きのバスに乗り、土橋で下車。小田急線の踏み切りをわたると、県道62号線の交差点前に土橋跡の史跡があります。この付近にはその昔、五本の大木があり、木に沿った小さな流れに土橋がかけられたことから、いつしか付近一帯を土橋と呼ぶようになったといいます。この橋は1926年コンクリートの橋になったと石碑にあります。
 道路を下ると、自然石の地神塔、后土神があり、室川にかかる向開戸橋のたもとには四体の双体道祖神がひっそりと置かれています。川の際に水神様の石祠もあり、昔は生活に欠かせない川だったことが伺えます。
 西光寺裏手の四つ角をまっすぐにいくと、三体の石仏があります。ちょうど家からでてきたおばあさんに聞くと、その中のひとつ、こじんまりと祀られた小峰神社については、今も毎月1日と15日にお供えをし、5月には近隣14軒でお祭をするそうです。信仰心の深さに頭がさがる思いでした。
 西光寺の境内には、大きな糸ヒバの木や江戸時代の相撲行司さんゆかりの墓地や、万治四(1661)年の大変古いお地蔵さんが祀られています。特にこの付近は信仰心の表れか、たくさんの石仏が見られます。子どもの頃、このあたりでよく遊んだ記憶がありますが、当時もここにあったのか、残念ながら覚えていません。ブロック塀の中の馬頭観音は私の同級生の家でしたが・・・小さなお堂にはいった如意輪観音様の脇の和菓子屋さんでお菓子を各々買って一息つきました。
 震生湖方面の峯坂手前に双体道祖神があり、左方向には后土神、道祖神。その脇の坂の途中に小さな地蔵様があります。草に覆われていて見つからず、近所の古老に聞き、やっと探しだしたものです。この地域には坂道が多く、山越えして境地区や二宮へ向かう道中の守り神として、地蔵様や道祖神が大切にされていたようです。
 これより、今泉地区。たくさんの泉が湧き出していることから今泉という地名がうまれたというように、今でもこんこんと湧き出る湧水があちこちに見られます。
 関東三大稲荷の一つ、白笹稲荷近くの地元名物うどん屋さんで昼食後、御嶽神社方面へ。この道沿いにも所々に道祖神、庚申等があり、それぞれの石仏に今でもお神酒や花が供えられています。
 太岳院近くにマラセの神と呼ばれている男性のシンボルの形をした道祖神があります。この地域には昔、男の子が少なく男の子が授かるように祈願して嘉永4(1851)年に祀られたそうです。今も1月14日には小屋が作られ、道祖神のお札売りやどんど焼きなど子どもの伝統行事が盛んに行われているのは嬉しいことです。
 小藤川(河童が住んでいて子どもをさらうので子捕り川といわれていた)をわたり、少しいくと天社神と大山への道標を兼ねた道祖神があります。
 太岳院では建築家安藤忠雄さん設計の本堂、市指定の文化財十一面観音を拝観、お茶とお菓子をいただきました。墓地には、明石原人の人骨発見者、長良信夫さんのお墓もあります。市内最古約二万年前の旧石器時代のナイフ形石器が発見された遺跡も近くにあり、今泉湧水地には龍と娘の言い伝えもあるそうで、ぜひ訪ねてほしいところです。
 八坂神社の大椋を見て、昔の人にとって最も大切な生活用水である荒井用水がさらさらと流れるその先に、天社神、道祖神、双体道祖神を見て、小田急踏み切り横の石受稲荷境内の市指定樹木第一号の大楠を見て散会しました。
 今回、平沢から今泉の道をまわり、数多くの石仏を見て、これらの道が昔の人の重要な道であることがよくわかりました。また、いろいろな伝承文化について、私たちの世代だけではなく、次の世代に伝えていかなければならないと感じました。
posted by まほら秦野 at 10:52| 大山道を歩く コース編 南地区