2010年10月11日

下落幡地区を通る大山街道

 下落幡地区を通る大山街道
                    岩田 安雄

 県道(大磯・鶴巻・上糟屋線)を真田橋から落幡耕地を越え、善唱寺前(芦川はんめえ)を右に折れて進むと、奥津さん(奥津輿津金ちゃん)の角にでる。左に折れて僅かに進むと左側に深川さんのお稲荷さんと庚申塔がある。このお庚申塔には「右おおやま、左かねえ」と刻んである。ここらあたりが昔の下落幡の中心であろう。この先が中庭谷戸と呼ばれている。緩い坂を上がり切ると右角が角十(かどじゆう)さん(現当主は成田正雄はん)の四ツ角にでる。ここを右に折れれば四万崎(しまんさき)から舞台(ぶてえ)の集落。舞台の死に畑横を通り、やもめ橋(その昔、お嫁さんが渡れなかった、矢茂井橋)を渡り、平塚市の丸島、大畑、矢崎、豊田本郷へ抜ける。
 きびすを返し、角十さんの横を直進し綿屋(川瀬さん)の前を通り百b、宮川はんの大辻に出る。ここは昔から大山講の大灯篭が立つところで知られていた。
 七月の二十五日にたてて八月のお盆過ぎに取り片付ける。これは下落幡の若い衆が総出で取り行う習わしであったと聞いている。現在は、村で保存会を作り古老たちが総がかりで伝統行事の一つとして伝承しているというが定かではない。その昔から大山講の参詣者達の暗夜の道知るべ(道標)として知られてきた。
 ここは現在、ひかりの街の東南に位置する第一自治会館の前辺りである。ここを過ぎて根丸島の奉公に進むと御輿洗戸橋(みあれいど)である。昔、国府まつり(こうのまち)の御神輿揃えに、三の宮はん(比々多神社)のお御神輿さんが往来のみぎり汚れを洗い落として行かれたとの言い伝えがある。
 ここをさらに直進して久保寺はんの角に出る。根丸島の集落を過ぎ、ひかりの丘の下を僅かに行くと善波川に出る。ここが出口橋といい、伊勢原市との境界である。なぜか.ここも「でぐち」と呼び、お嫁さんが通れない場所の一つとして伝えられて来た。
 ここを過ぎ、串橋耕地の田んぼの端し右側角に道標があり、「大山街道右かねえ、左大山」と刻んである。これから串橋のもとまち、神戸の宿、三の宮谷戸、山王原、しめしき、子易明神下を通り、大山参詣の人々が登り通った道。これが大山街道である。
 舞台(ぶてい)の死に畑、やもめ橋、出口(でぐち)、板丸島めえのどぶっ田、などなどの忌み言葉の多い地名も何かいわれがあるのかもしれないが、今はすべてが定かてはない。
posted by まほら秦野 at 15:12| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年09月06日

堀四ケ村を歩く

尊仏山の水が育んだ扇状地             
                         浦田江里子    

 国道の車の流れを眼下に急な石段を上ると、沼代の御嶽神社はざわめく強い風の中だった。前日の大雨に洗われた青空が木々の間にゆれていた。ここは日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際、立ち寄ったとされる場所で、昨年、記念碑も建立された。蔵王権現、日本武尊、宇迦之御魂尊(ウカノミタマノカミ=穀物の神・お稲荷様)の三人の神様が合祀され、境内には天神社、聖徳神社、山神社、天社神も並ぶありがたい神社である。
「まほら秦野道しるべの会」の西地区踏査の二回目は、地に足つけて愛情深く郷土を見守る米山正先生(元中学校校長・西地区在住)の丁寧な案内で、御嶽神社を出発点に新緑を楽しみながらのふるさと探訪となった。
 西地区は丹沢山系を源とする水無川と四十八瀬川に挟まれた扇状地である。水に恵まれた山麓地区は裕福であったが、砂地の平地は、水田が少なく、農作物も限られ、生活苦から出稼ぎに出る人も多かった。水道が整い、クヌギ林が住宅となり、水はなくても学校や駅に近いという地の利から、平地で商・工業が発展し急激な変化を遂げたのは、戦後復興の時期からである。
 人々の暮らしだけでなく、地名にも地形の特徴が表れている。西地区の堀郷という地域の大字は、東の水無川、西の四十八瀬川の中央に自然発生した堀(放水溝)が由来といわれる。
大字名は近世の村との考えから、堀郷は堀山下村、堀川村、堀西村の三村で成ると思いきや、堀西村については、その地名が実在したのは市町村制施行(明治20年)前の二年あまりという。近世後期を通して堀西村の前身は堀斉藤村と堀沼城村という名であり、この二村は旗本領を基準に分けられたことから、個人の土地ごとに属する村が違う、というややこしい状況だったようだ。道すがら米山先生の案内は「この家は堀沼城村、その隣の家は堀斉藤村、あの家は…」といった感じで、それは合理を無視した勢力争いの時代を垣間見るようだった。現在、その区切りや名残はない。同じ地域が「堀四ケ村」「堀三ケ村」と呼び分けられた理由である。
 国道246号線を渡り、沼代交差点を南へ向かう。小田急線を見下ろす線路脇で米山先生から「新宿小田原間の最高地点と最高の景色は?」との質問があった。答えは、駅名候補に「丹沢高原」があがったという標高169mの渋沢駅、青い山並みと山すそに広がるのどかな秦野盆地の風景とのこと。私の住む東地区は山ふところの趣だが、渋沢丘陵を臨む西地区には、ぐっと引いて車窓から眺めたい景色が広がっている。なるほど、と思う。
 かつて「富士道」だったテニスコート沿いの細道を抜け、山の斜面をそのまま坂にしたような急坂「堂坂」に出る。2基の道祖神と五輪塔が並んでいる。ここには観音堂があったが、関東大震災で倒壊し、観音様は現在沼代自治会館に安置されている。
 昭和12年の大洪水で流失した「二級国道東京沼津線跡地」(現在も当時のまま手付かずの草地)を見た後、山側の名所旧跡を巡るコースに入る。
 堀酉の地蔵堂(波多川公民館)には、延命地蔵が安置されている。木造地蔵菩薩の中に石造地蔵が納まる胎内地蔵で、1720年のもの。小田原板橋地蔵、山北竹ノ下地蔵とはお札の図案やお念仏の唱が似ており、何か深い縁があるようだ。鴨居の上部に飾られた古い絵や立派な須弥壇が歴史の重みを感じさせる。寄進者名や名簿に岩田姓がズラリと並ぶのは、岩田某が一族の守り神としたことから、岩田姓だけの居住を認めた時期があったことによる。
 波多川地区の鎮守、天津(アマツ)神社は竹林に囲まれた別世界である。時代を遡ったような錯覚さえ覚える。朴葉のお皿に鬼胡桃をのせたお供えは子どもたちが遊んだ跡だろうか。参道は山道、正面は四十八瀬川。部落に背を向ける神社の謂われも諸説あり、謎めいている。コンクリート製の龍図の立体絵馬は市の文化財となっている。
 上流の部落、黒木・欠畑地区の鎮守、須賀神社から西へ500メートルほどのところに大日堂跡がある。杉林の中に細く道ともいえない踏み跡があり、石仏や供養塔、阿弥陀仏石塔が散在している。かつて人々の信仰を集めたところに風化した石たちの佇まい。「…夢の跡」ではないが、時の流れにまかせ、自然のまま、ここにある。それもまたいい。
 森戸地区の自治会館には阿弥陀仏立像がある。この地には以前阿弥陀堂があり、安産の神様として多くの祈願を受けてきた。火災に遭うも地元民に背負われて町に出向き、立派にお化粧直しをしてきたという。
 元々は四十八瀬川上流にあった蔵林寺は文明年間(1469〜1487)に堀山下の現地に移転した。江戸時代、堀山下に領地を持つ米倉丹後の守の保護を受け、米倉家の菩提寺となった。丹後守・米倉昌尹(マサタダ)は後に若年寄りに昇進し、相模・上野・武蔵に15000石の領土を持つまでになり、1678年に先祖供養のために蔵林寺本堂庫裏を建立した。本堂左手に立ち並ぶ一族の墓石群の中、ひときわ丁重に扱われているのが昌尹の墓である。折しも前日は丹沢まつり。墓前は清められ、花が供えられていた。秦野ゆかりの武将をしのぶ勇壮な大名行列が今年も見られたことだろう。
 この日、出会った大山道の道標はひとつ。民家の並ぶ細い道筋、整地され手入れの行き届いた一角に、こぢんまりと立っていた。大山とともに「そんぶつみちへ」の道しるべも見かけるこの地区。扇状地の村に生きる人々にとって、命の水の湧き出る尊仏山もまた、心の拠り所であり、生活を支える大切な山だったのだろう。
posted by まほら秦野 at 15:49| 大山道を歩く コース編 西地区

2010年09月03日

山街道を歩く

 弘法山の麓で
                      浦田江里子

 入梅間近の六月のある日、以前にまほらの会で歩いた道をなぞってみようと鶴巻方面にでかけた。一緒に歩いたのは、子育ての悩みも、忙しさの合間のささやかな楽しみも共有してきた同世代の友人である。古道の面影を残す道を歩いて、いにしえへと思いを馳せ、小さな感動を共に味わいたい気持ちもあった。
 河原町から平塚行きのバスに乗り、瓜生野入口で下車、うとう坂へ。切り通しの道は、奈良時代の土器が出土したことから、古代の主要道と考えられている。左手が下大槻、右手が南矢名。付近はこんもりした地形から中世には城があったともいわれ、城山(じょうやま)の呼び名がある。明るい舗装道に木漏れ日が光る。吹き抜ける風が気持ちいい。その道をしばらく進み三界万霊塔を目指すが、見つからない。同じ道を三往復して、あきらめて戻る。このあたり、みかん畑の脇や民家の裏手に古道の名残が見られる。草むらに埋もれ、忘れ去られた道の痕跡に、過去への入口を見るようで、これが古道歩きの魅力かとも思う。
 手作り家具工房前の林に沿った道を入り、数十メートルほどゆるやかに登ると「地蔵の入り」。薄暗い木立のなかに、たくさんの五輪塔が並んでいる。昭和50年代に散在していたものを集めたという。傾いたもの、欠けたもの、崩れかけたもの、苔むした小さな塔は四十基を超える。よく見ると、地蔵菩薩が二体。20cmほどのお地蔵さんは室町時代に作られた。ここは墳葬の場所だったという説もある。木枝にほうきが掛けられている。見ず知らずの魂にささやかな供養の気持ちを引き継ぐ人がいるのだろう。
 徳川家から領地5石の朱印を受けた寺、龍法寺の広い境内でひとやすみ。元住職の星野さんは高校生の頃、寺裏から鎌倉時代の貴重な屋根瓦を掘り当てた。今も大切に保管された瓦を手に、熱く語る星野さんを思い出した。郷土に歴史があり、人はそんなふるさとに愛惜の念をもつのだな、としみじみ思う。
 旧大根村の鎮守、八幡神社本殿は三本の柱を持つ珍しい形式だが、バブル期に本殿が覆われ、重厚で厳かな建物が全く見られないのは残念だ。社裏から自興院への道は、みずひき、高野ぼうき、やぶらんなど小さな野草を探すのも楽しい静かな道。夏に訪れた時は、ふりそそぐ蝉しぐれに追いかけられるように歩いた。今はうぐいすやシジュウカラ、野鳥の声に癒される。「いせはら」「十日市場」を示す途中の道標にはお不動さんが掘り込まれ、ここにもほうきがかかっている。古来、信仰心厚い人々にとって、道祖神や道標を守ることは旅路の安全を祈願することに通じたのである。
 民家の間を通り、小屋に入った道祖神を拝み、石塀の上、茶畑の片隅にひっそりと立つ庚申塔を見つける。風雨にさらされ、人々の心が離れ、朽ちるばかりとなった、思いのしみこんだこの石はどうなるのだろうか。
 菅原神社の石段を上り、のどかでひなびた「野仏と温泉の道」を歩き、石座神社へ。幼稚園帰りの親子が数組、遊具で遊んでいた。私が子供だった頃もこんな光景があった。森を作る神社の境内は、いつの時代も懐かしく心に響く場所なのか。ご神体は日本武尊(やまとたけるのみこと)が腰掛けた巨石で、その上に本殿が建っているというが、いつもながら伝説の証が見たいと思うのはここでも同じ。が、巨石の存在も神秘のベールに包まれているからこそ、ありがたみも増すのかもしれない。
 国道を横切り、鶴巻公民館で一息つく。一日つきあってくれた友人は「知らないところを知るのは楽しい。歩いてみるといろいろな発見があるね」。私の聞きかじりの中途半端な知識も少しは役にたったのかな。
 同じ秦野といえども、弘法山のこちらとあちらでは、住む人の思いが違うように感じる。東・西地区では大山の存在が大きく、人々の生活に弘法山はあまり登場しない。それに比べて大根・鶴巻地区では、生活の根っこに弘法山の存在がある。武士の時代には城郭として、その後は信仰心の拠り所として、人々が仰ぎ見てきた弘法山は、取りも直さず、特別なものとして語られるようである。それは、秦野の中で大山道だけ見て歩いてきた私には新鮮な感動だった。
 目に見えるものは廃れても、奥底に受け継がれる感覚は今も人々の心に息づいている。それを次世代に伝えていこうと、熱心に資料をひもとき、研究する人もいる。そして、小さな新芽のように、古いものが、少しずつ、新しく、語られ始めてもいる。この流れがどこへいくのか、過去を学ぶごとに興味も増す昨今である。
posted by まほら秦野 at 13:59| 大山道を歩く コース編 大根地区

蓑毛通り(富士道)を歩く 西田原から東田原へ

 西田原から東田原へ
                          横山 信子

 「田原」という地名は、「荒れ地を開拓したところ」といわれ、湧き水も豊かで、盆地内の水田地帯です。この近辺は、中世の史跡や富士山のビューポイントなどがあり、散策にはうってつけです。東西の分村は永禄(一五五八〜一五七〇)以前だろうといわれ、今も東田原の中に西田原の飛び地が多くあります。
 田原の中ほどに大山道富士道(蓑毛通り)が走り、道標に「富士、大山」と記されるなど、多くの参詣者で娠わっていたと思われます。大山と富士山は父と娘の関係で、片方だけの片参りは良くないとされ、江戸→甲州→富士吉田→松田→田原→大山(子のコースを「富士下向」という)のルートが願わったそうです。しかし、同じ女の神様だからと大山の後、江の島を目指した人も多かったとか。
 延宝八年(一六八〇)の十日市場市立申立書には、「田原村氏直様以来より罷立市御座候」とあり、北条氏直支配の頃には田原村に市があったとされています。さらに同書には、「これをつぶし、その後十日市場町に立て、さらに曽屋村内に新しく市を立てた」と書かれています。上宿から下宿にかけてが十日市場跡とされ、宿尻という地名や改築前は宿屋だったという家もあり、往時が偲ばれます。
 西田原に「堀ノ内」という小字があります。北条家人数覚書書(天正十八年)に「大藤長門守相州田原の城五十騎」と記され、大藤氏の墓所が近くの香雲寺にあることからも、秀吉の襲来に備えた小田原北条氏の家臣大藤氏の城があったとされるところです。香書寺の梵鐘は
市内に現存する中でもっとも古い部類に入るそうです。また梅の参道があり、開花時は見事です。この参道の上部からは、晴れた日に弘法山や富士、箱根の山々を望める素敵なところです。参道入口の地蔵は「いぼとり地蔵」と呼ばれ、お願いするといぼが取れると伝えられています。
 東田原神社は、江戸時代までは米倉昌尹を開祖とする道明寺という寺で、米倉家の念持仏の観音像を安置していましたが、明治の廃仏毀釈によって神社となりました。社の造りに寺の名残りがうかがえます。今でもこの神社のことを「お観音さん」と呼ぶ人もいます。
 田原ふるさと公園の一角に、実朝公御首塚があります。「一二一九年、実朝は鎌倉の鶴ケ岡八幡宮に参拝した折、甥の公暁に殺された。公暁は逃げる途中、三浦義村の家来に討たれた。家来の一人、武常晴が実朝の御首を持って波多野まで逃げのび、波多野忠網がこの地に埋めた。実朝を弔って建てられたのが金剛寺」などの言い伝えや民話が残ります。金剛寺本堂には、実朝坐像が安置されています。毎年11月23日(祝)には御首塚を中心に実朝まつりが行われ、稚児武者行列や数々の催し物や模擬店などで盛大です。平成十八年には秦野市市制施行五〇周年記念事業の一環で、実朝まつりに合わせ公園周辺で秦野初の流鏑馬が披露されるなど、多くの観客で賑わいました。
posted by まほら秦野 at 13:54| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年08月25日

矢倉沢往還と今川町のくらし

月例学習会          2010年8月22日 東公民館
 
 矢倉沢往還と今川町のくらし
                講師 内藤 美彦氏(前秦野市教育長)

1 今川町の名称
 水無川の左岸に上河原淵、下河原淵という地名がある。この河と地名・今泉を合わせて今川(河)町。
2 今川町の道路
・旧道(夫倉沢往還)
・新道(明治34年)
・学校道(昭和8年)
3 今川町の橋
 ・秦野橋(明治34年)
  ・昭和橋(昭和6年)・…‥まはろば大橋
  ・桜橋(昭和8年)
4 小田急開通に伴う道路改修
・水無川右岸
・水無川左岸
5 今川町の町並み(昭和10年頃)
・店舗…肥料店、金靴屋、鞍屋、車大工、のこぎり屋、ふるい屋、鍛冶屋、銭湯、映画館など
・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴
6 荒井用水
  ・諏訪町の利用
  ・今川町の利用(飲用水)



今川町は「かかあ天下に馬糞っ風」
                     
  昭和30年代後半まで国道東京・沼津線(千村―曲松―平沢―曽屋―善波峠を通る矢倉沢往還)は今川町を縦断していた。この道は、東京オリンピックの年大きく改修され、国道246号と名前を変え、現在のルートになり昭和39年8月に開通した。
 “かかあ天下” 今川町がなぜ“かかあ天下”なのかと言えば、大正から昭和10年代、今川町には料亭が10数軒あった。料亭の経営(繁昌)は女将の腕次第だから、“かかあ天下”。
 “馬糞っ風” 12月になると、秦野名産の葉タバコの納付が行なわれる。今泉、平沢などの南地区は言うまでもなく西地区や松田方面からも、馬車や牛車に葉タバコを積み今川町通りを専売局に向う。帰りも当然この道である。
 この通りには農家を相手にする肥料店、金靴屋(馬蹄)、鞍屋(牛馬の鞍)、車大工、さらには馬の種付け屋などもあった。“馬糞っ風”は当然だろう。
 今川町の町並み(昭和10年頃)
 ・店舗…肥料店、金靴屋、鞍屋、車大工、のこぎり屋、ふるい屋、鍛冶屋、銭湯、映画館など
 ・料亭…宝仙楼、大木家、清水家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家、みくに、安楽、三階家、清鈴

 大正年代の今川町には宝仙楼、清水家、本木家、三階家、宝来家、養生館、さくらや、藤金家等々の料亭があり、芸者、半玉、仲居の女の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかしたあこがれの街であり、又、大山講中の無事下山に一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 料亭には、東北地方から小学校を中途退学して売られてきた女の子も少なくなかったようで、当局は義務教育遂行のため再就学を強行じ、年令を問わず退学当時の学年に編入させた。南秦野小学校の児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並べて学習をするそんな学校風景もあった。
 商売屋もいろいろあって、金靴屋(馬蹄)、くら屋(馬の鞍)、肥料店、鍛冶屋、鋸の目立て屋、桶屋、ブリキ屋、足袋屋、一膳飯屋、豆腐屋、医院、紺屋(染物)、床屋、雑貨屋、菓子屋、ふるい屋、竹屋、銭湯などがあったが今は全部その姿を消している。思えばこれら商家が農家と関係深い業種の多かったこともうなずける。
posted by まほら秦野 at 14:53| 大山道を歩く コース編 南地区

2010年08月15日

坂本道と蓑毛道 

寺山地内を通る坂本道と蓑毛道   
                          武  勝美  
 
 寺山には古道・大山道が二本通っている。その一本が大山道坂本道(さかもとみち)。この道は東中学校の裏でバス通り(主要地方道秦野清川線)を離れ右に入っていく。今は県道大山秦野線となっているが、竹の内、二つ沢 角ケ谷戸という集落を過ぎると急な山道になっていて往時を偲ぶことが出来る道だ。
 バス停「藤棚」の三叉路に大きな道標(縦150センチ・横巾140センチほど)がある。その碑には「右さか本道」「左ミの毛道」とある。ここまでの道は大山道羽根尾道とよばれているが、ここで坂本道と蓑毛道に分かれる。左の道は東小学校の正門の前を通り、JAの支所の前で右折すると、道は秦野城址を左に見ながら東中学校の脇を通る。この道が大山道・蓑毛道(みのげみち)で、これが寺山を通る二本目の道。
 坂本道とは、今の大山町は江戸時代は坂本村と呼ばれていた、その坂本村に通じる道だったからである。蓑毛道は大山山頂に向かうとき、通過する地から付けられた名である。かつて蓑毛は大山参拝の信者の宿となる御師の宿が数軒あった。御師は神職であり、阿夫利神社参拝の案内をした。
 いっぽう、千村から曲松を経て田原を通り、寺山との境となっている金目川に沿って登る道が大山道・富士道(ふじみち)である。富士道の由来は、富士山と大山は両方登らないとご利益がないと言われていたから、大山から富士山へ、あるいはその逆コースをとる人もいて、この名がつけられた。富士山の祭神は木花開耶姫、大山は大山祇神が祀られている。大山祇神が父で木花開耶姫がその娘、親娘というより陰陽の重要さを意味していると思う。
 さて、この蓑毛道と富士道が合流するところを「才戸」と呼ぶ。「才戸」とは「塞戸」のことで「悪霊や災いの侵入を戸で塞いで防ぐ」という意味の地名。「道祖土」と書いて「さいど」と読ませる地名、姓が埼玉にあるとおり「才戸」は道祖神の意味もある。
 大山信仰のご神体は「石尊」と呼ばれるように石であって、大山そのものをも表している。この合流地点に立っている大山道の道標は市内でもっとも古いもので、享保20年(1735年)年と記されて,碑文は「右ハふし□ 左はオタ原」と読める(読めたのだそうです。今では判読できません。)
大山参詣のピークは18世紀半ばと18世紀末から19世紀初頭の二つの時期だと言われている。一夏10万人もの人が大山に登ったという。寺山地内もまた、その登山者の往来でにぎわったのだろう。
 冨士道と蓑毛道が合流した道はいよいよ大山山頂を目指すのだが、才戸の合流地点から右に分かれていく道がある。この道は500メートルほど上ったところで坂本道につながり、「いより越え」をして御師の宿・坂本村に入る。こちらの合流地点あたりを「てふづか(ちょう塚)」と呼んでいて、「てふづかにはお婆が出る」という話が伝わっている。 
posted by まほら秦野 at 19:45| 大山道を歩く コース編 東地区

2010年08月14日

東田原八幡・清水の水神様の祭り

2003年4月1日 富士道を歩く 東田原八幡・清水の水神様の祭り 
 祭神は97、92、86歳の大女性  
                               武 勝美
        
 東地区の湧水のことを少し調べていた私に、東田原の八幡に住む大津俊彦さんから「うちらが使っている湧水について取材に来てよ。年寄りがいなくなる前に記録しておきたいから」と電話があった。毎年4月1日に、今も裏山の湧き水を飲料水に使っている4軒が、そのお礼のお祭りを水神さんの前でするというのだ。
 その日はうす曇りだった。祭といっても特別な神事を行うわけではない。湧水を引き出している横穴の前に水神さんの碑がある。その碑にお線香を上げて(神様に線香というのがイイ) 、持ち寄ったご馳走を食べる。
 明治32年2月1日に建てられた碑。碑文は「水神」とあり、下に「六分大津啓次郎 四分同大次郎  同元吉  同喜平  同庄平次」とある。「六分、四分」は水の使用権利を表しているのだろうか、それとも経費を記録したものなのか。最初は五軒でこの水源を使用し、維持・管理していたようだ。戦後、そのうちの一軒がこの地を離れた。その折、水利権の消滅をはっきりさせるため使用していた導水管がはずされた、との説明があった。
 祭りを行う現在の四軒のうち、大津秀雄家、大津俊彦家、大津隆之家の三軒は飲食にこの水を使っている。とくに大津健一家は、市営の水道水は引き込んでいない。酪農を営んでいる俊彦さんが笑いながら言った。「牛に飲ませるのは市営水道の水、人間は山の神さんの水を飲んでいる」。
 案内されて、祭りの場所に行くと、すでに一人のお年寄りが水神様の横に座っている。大津アサさん・97歳で「花を飾っておくと鴉が来て悪さをするので、番をしていたのよう」と話してくれた。10 時過ぎ、このアサさん、大津チヨさん・92歳、そして大津イネさん・86歳を中心に4軒から8人が集まってきた。最年少はイネさんの孫で学生の有希さん。それぞれが線香を手向け、祝宴に入った。主賓はもちろん三人の大女性、いや祭神かもしれない。大きく敷かれたシートの上に、太巻き寿司、押し寿司、いなり寿司、お赤飯のおにぎり、煮しめ、漬物、テンヨセ、ぜんまい、ウドなど、それぞれの家庭がを持ち寄った自慢のものを並べる。ビール、日本酒があることはいうまでもないこと。三人の大女性の嫁さんが三人(千代子さん、美津江さん、早苗さん)―60代後半の方もいた―もその席にいた。自治会長でもある秀雄さんが、アルコールが入ったこともあり、巧みな話術で女性陣の笑いを誘う。

 アサさんから水源を掘り当てた時の話を聞いた。「おじいさん(アサさんにとって祖父なのか、父なのか、夫なのか、そのあたりを確認しなかったのは失敗)から聞いた話だけど…」「ここで水を探して横穴を掘っていたら、下の道を通った道者が西に向かって掘るといい、と言った。それで、そのとおりに掘ったら大きな石に突き当って、その石の裏から水の音が聞こえた。それがこの湧き水だと」。居合わせた人たちにとって、この話は初めて聞く話だった。(私が取材に来たとことで陽の目を浴びた話。)
 「父ちゃんが戦争に行っている間、役場の人が何度も道を広げるから畑を出せと言いに来てよう、それでここに、こんなにまっすぐな道ができたのよう。ホントの道は田中から来てここで曲がって、金剛寺に行く道だったんだよう」。イネさんの話で昔の村の道、大山道・富士道のルートを知ることもできた。言われてみれば、村の真ん中に大山道の道標があるわけも納得できる。
 今年で104年、毎年この4軒が楽しく集まるから、おいしい水が湧き続いたのだろう。湧水で結びついた四軒の絆、そしてこの場の雰囲気は、私たちがもう遠に忘れてしまっていた≪隣り近所≫というものを思い起こさせてくれた。2時間あまり、私はほんとうに心地よい場所に居させてもらった。水神の碑の横に純白で端正な花弁の韮の花が、そして上に真っ赤なやぶ椿が咲いていた。
 「山の神」と呼ばれる地の裾で、山からの恵まれる湧水を今も利用しているのは、この大津四軒組のほかに、同じ八幡地区で三軒組、二軒組。更に東に回って金山と呼ばれる地区で五軒と古谷家、合わせて十五軒あるという。大津四軒組の小字名は八幡・清水という。
posted by まほら秦野 at 16:01| 大山道を歩く エッセイ編

2010年08月12日

矢倉沢往還新道(南矢名、鶴巻)を歩く

矢倉沢往還新道(南矢名、鶴巻)を歩く 2009・12・6
 
 講師 高橋  登氏
 秦野高校下車→根古屋館跡→日枝神社→前田夕暮生家跡→東光寺薬師堂(昼食)→宿矢名→二子塚古墳→東海大北門一落幡神社・大えのき→下部灯籠→酉光寺→梵天荘→鶴巻駅)
・矢倉沢往還新道:明治34年(1901)改築の結果、矢倉沢往還は四つ角より右折し、秦野往還(平塚街道)東端に至って分岐し、大根村に入る道が新道となった0人力車・荷車・荷馬車のため。
・根古屋館跡:平安時代末期に野田左衛門、失名三郎という武士の屋敷跡と伝えられている。堀之内や的場、馬場という地名や堀屋とよばれる家もある1179年野田氏が納めた釣鐘が東光寺薬師堂あったそうだが現在は残されていない。
・日枝神社:以前は、根古屋城の鬼門に建てられていたが、昭和の初め、小田急線工事のため取り壊された。現在の場所は、江戸時代に地蔵堂があり、廃仏毀釈で空き地となり、ここに建立された。
・前田夕暮:本名洋造。明治16年、大住都大根村大字南矢名に生まれ、20歳のとき大磯で「湘南公同会」を設立し、西行の「嶋立つ沢の秋の夕暮」から号をとった。
・東光寺薬師堂:鎌倉時代末の寄木造りの薬師如来像(片手薬師)と平安時代中ごろの一木造りの聖親音菩薩像の2体は秦野市指定文化財。
・宿矢名:風土記稿によれば、毎年7月12日、12月24日には市立てがあって盆会・歳始の用具が売られた。これを矢名宿市という。
・二子塚古墳:市内唯一の前方後円墳で、昭和58年(1983)に神奈川県指定の史跡となっている。昭和45年(1970)に行われた調査で丘陵先端の丘阜を利用して築造され、中世に墓地として用されていたことがわかった。平成20年の調査で、前方部及び復円部に盛土がされてい
ることがわかった。
・大えのき:巨木や榊を崇拝する文化が古代中国に起き、新羅を経て出雲に伝来して以来、巨木は天孫降の柱と考え神木としてたたえるようになる。
・下部灯籠:毎年お盆の時期(7月25日〜8月18日)大山参りの道しるべの小屋掛け灯籠が建てられる。
・西光寺:「中将姫がまんだらを織る図」中将姫の伝説。石打場、矢先、落幡、幡掛けの松
・梵天さん:出羽三山の修験者がこの地で入寂し、供養塔がたてられた。山の手が梵天山と呼ばれていたことから「梵天さん」と名付けられた。

 大山道道標(鶴巻第一自治会館敷地・鶴巻南4−8−2)‥延享4年(1747)左かない道右大山道
 大山道道標(鶴巻南3−10−26):(左)左 大山道(右)右 かない道
 庚申塔(鶴巻南3−5−20):文化7年(1810)右かない道 左大山道
 大山道道標(鶴巻北3一卜1):大正4年(1915)(正)此方 武相街道 (右)此方 比々多村 伊勢原町道 (左)此方 上落幡 北矢名道       (記録 横山)

posted by まほら秦野 at 09:44| 大山道を歩く コース編 大根地区

2010年08月08日

8月26日は『ロクヤさん』 蓑毛・小林庭

8月26日は『ロクヤさん』 蓑毛・小林庭
                                     武 勝美

 大山道・蓑毛道の「馬返し」の所には、33段の石段があったと言われている。そこは今、その石段があったことをうかがわせるに十分な急な坂道となっている。
 坂の脇に、今も「つたや」で通じる家がある。母は「つたやは大山参詣の人たちの宿」と言っていた。そして、「その裏に才戸のお堂があった」とも。その「つたや」の綾子さんから、「8月26日には、お堂の中の物が見られるから来てみたら」と誘われていた。
 その日の11時、今は道路拡張とのかかわりで蓑毛下会館に名前を替えている「お堂」を訪ねた。会館には20名ほどの人が集り、赤と白の幟を立てる準備をしていた。男性の湯山さん、井上さん、江原さん、石垣さん、中村さんの5人は顔見知り。彼らに話を聞かせてもらった。「お堂」とは宝蓮寺持ちの観音堂のことだった。
 最年長の男性・高橋さん―たぶん80歳代だろう―の指示を受けながら、私も竹竿に幟を付けるのを手伝った。かつて在ったと言われている石段に替わり、会館に登るコンクリート製の階段が設えてある。その階段に沿って33本の幟が立てられた。
 1 杉本観音 2 岩殿観音 3 田代観音 4 長谷観音 5 飯泉観音 6 飯山観音 7 金目観音 9 慈光寺 10 巌殿観音 11 吉見観音 12 慈恩寺観音 13 浅草観音 14 弘明寺 15 白岩観音 16 水澤観音 17 出流山観音 18 立木観音 19 大谷観音 20 西明寺 21 八溝山観音 22 北向観音 23 佐白観音 24 雨引観音 25 大御堂観音 26 清瀧観音 27 飯沼観音 28 滑河観音 29 千葉寺 30 高倉観音 31 笠森観音 32 清水観音 33 那古観音。そして階段を登りきったところに、館内の厨子に祀られていた十一面観音菩薩像を安置し、脇にひと回り大きい「観音堂霊場」と記された白の幟が立つ。
 午後2時を目安に、三々五々お参りの善男善女が集ってくる。この日に才戸の観音さんにお参りすると、坂東三十三番の札所を全て回ったのと同じご利益があるのだそうだ。皆さん、会館(観音堂)を一回りするように歩き、最後に幟の立つ階段を上がり観音さんに線香を手向ける。
 お参りが済むと『ロクヤさん』の念仏講が始まる。『ロクヤさん』とは「六夜祭」を親しく呼ぶ言葉で「二十六夜講」のこと。江戸時代から続いていたと思われるこの『ロクヤさん』、2年前に講中が二人になってしまったので「終りにしよう」とした。だがその消滅を惜しむ人たちの後押しで存続させることになり、昨年から本格的に動き始めた。この日、念仏講に参加したのは39人(男性6人)だった。
 先達は松下菊枝(88)さんと 湯山富江(84)さん。昨年出直したばかりのこの念仏講には50代の女性も加わっている。皆さんが神妙な顔つきで唱えるお念仏は、聞き馴れているお経のリズムとは少し違って聞こえた。だが、声はめっぽう大きく明るかった。ほほえましくさえ感じた。私も自然に唱和していた。
「南無、不動、釈迦、文殊/普賢、地蔵、弥勒、薬師/観世、勢至、阿弥陀、阿閃(あしゅく)、大日、虚空蔵」と、十三仏の尊称を13回唱えるのがこの念仏講である。
 終わってからの和やかな懇親会は、昔と変わらない『ロクヤさん』となった。
 家族の健康を願って参拝 昭和二十年代までは芝居がかかり、露店も出たという『ロクヤさん』のお祭り   かつてここには宝蓮寺の観音堂があった 会館の裏手に秦野市最古の、不動明王を戴く大山道の道標が立っている。昨年、再発足した念仏講 だからまだ経本は手から離せない 観音さんにお参りした人と念仏講の皆さんとで懇親会
 厨子に安置されている弘法大師像
後藤慶明作 安政4年(1857)   
 お念仏を唱えている皆さんの前に鎮座ましますのは弘法大師さま。前垂れを掛けているので「おびんずるさま」かと思った。
「鎌倉扇ケ谷住 大仏所後藤斎宮慶明 安政四巳年(1857)十二月 日」が頭部内に、「向原某、江原某、鈴野某、湯山某、高橋某」などと像底に書かれている。

蓑毛下会館内の厨子に納められている掛け軸
その日、厨子に納められている掛け軸も見せてもらった。私が理解できたものは次のものだった。
1 石尊大権現(大山講) 2 徳一菩薩(大山寺)徳一上人の生まれは常陸。奈良の興福寺で修行した法相(ほっそう)宗の高僧。後に関東の山岳宗教の発展に貢献した。弘法大師・空海と同時代だったので気脈は通じていた。空海が東国順錫で大山に登ったとき、徳一上人の勧めで大山寺三世に名を連ねたという。 3 天社神(地神講) 4 白笹稲荷(稲荷講)  5 弁天(巳待講) 6 山の神(山の講)。これ等の多くは小林庭の講中のものようだった。

 ※二十六夜講 月待ち講といわれ、特定の月齢(二十六)の夜、月の出を待ちながら勤行や飲食、歓談をする。月が昇ると《心願》し解散する。二十六夜の月は、明け方前に昇る三日月。その月光の中に阿弥陀三尊が姿を現すといわれている。



posted by まほら秦野 at 15:44| 大山道を歩く エッセイ編

大山道・蓑毛通り小田原道(栃窪街道)を歩く

大山道・蓑毛通り小田原道(栃窪街道)を歩く 

集合 渋沢駅南口 神奈中バス 9:18発「峠」行に乗車

真静院 大地裁 文安元年(1444)市指定文化財

神明神社 大日留女尊

行者道(小田原道)小田原飯泉…酉大友…篠窪…峠…桜土手…田原…蓑毛…大山

弘法の硯水、一本松

かりがねの松(頭高山)雁音比売命

念仏供養塔(文化3年1806)(渋沢3215)
     (正)念仏供養塔 文化三寅年七月一五日
     (右)右 小田原 さい志やうじ道
(かんざしの松)(栃窪301)

十日市場の道標(嘉永2年1849)
     (正)十日市場道
     (右)ふじ小田原道
     (左)御嶽大権現道

栃窪神社《昼食》

出戸用水

真栖寺

栃窪街道

寒念仏供養塔(道標)不動明王(文化元年1804)(渋沢1803)
    (正)東 かない観音 十日市場道
    (左)左 さいじやうし ふし道 
    (右)右 みろくし道 文化元甲子天四月吉祥日 
    (台正)寒念俳供養

双体道祖神

地神塔(道標)(文政4年1821)(渋沢777)
   (正)天社神
   (右)文政四巳年 右 ふじみち
   (左)十日市場道

双体道祖神

稲荷神社境内の道標(寛政8年1796)(曲松1−6−7)
   (正)右 ふじ山 さい志やうじ 道
      左 十日市場 かなひかんをん 道
   (右)右 大山みち
   (左)左 小田原 いいすミ みち 

浅間社石嗣(曲松1−2−16)

渋沢駅 解散
posted by まほら秦野 at 15:38| 大山道を歩く コース編 西地区